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もちださんの鎌倉リポート No.185(2015年12月30日)



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金沢道のつづき・2


 「金沢道」は能見堂下から金沢、洲崎、六浦へつづいた。京急・金沢文庫駅から称名寺赤門へは、金沢教会天使幼稚園のところの坂をのぼるが、駅のあるひくい位置にはかつて入り海があった。

 入り海(ラグーン)の出口は瀬戸橋ふきんで平潟湾と接続。洲崎と六浦の町とをむすぶこの橋がかかったために土砂の排出がさまたげられ、干潟化が一気にすすんだようだ。かつて能見堂からみると、水面のむこうに洲崎の砂洲と瀬戸橋あたりの数本の橋がくっきり一列にならんでみえた。それが杭州西湖に蘇東坡がつくったとされる西湖十景の名勝「蘇堤春暁」をおもわせたという。


 杭州は南宋の亡命政府「臨安府」があったところだから、渡来僧にはなじみのけしきだったろう。日本むけの湊・明州(寧波)にもちかいし、絵にもさかんにえがかれてきた。

 称名寺の裏山、八角堂というぼろぼろの涼亭あたりからみると、横須賀の野島にむかって弧線状にのびる洲崎のまちがかつての陸地、砂洲のなごり。かつてはこのみぎにも、入り海の水面がみえた。土砂の堆積により、潟湖は塩田などとしてしだいにうめられていった。

 海辺は比較的あたたかいので、あまりあざやかに紅葉しない。まだ青みがじゅうぶん消えないうちに枯葉化し落ちはじめてしまう。謡曲「六浦」は金沢称名寺が舞台だが、かつて一本だけ鮮やかに色づいたので、為相卿がお褒めの和歌を詠んだ。謡曲では、身に余る光栄に感激した紅葉の精が、「功成り名を遂げてののちは、身を引く」などと思いつめて、それから「青葉の紅葉」になった、のだとする。別種の木にかわっただけなのかもしれないが、標識のたついまの若木は、ごらんのとおり(下写真)。


 謡の作者は、金春禅竹(1405-1471)か、あるいは当時一門にいた佐阿弥(1383-1458)という者かという。禅竹には式子内親王の墓石にいつまでもまとわりつく恋人の幻影、死んでからも女の脳裏を去らないその飽くなき妄執を、定家葛という植物にたくした名作もある。かつて植物にも霊があるとかんがえられていた。

 むかしの称名寺には、楊貴妃の水晶の玉簾と四石八木という名石名木のいくつかがあった。鎌倉物語によれば「文殊像、普賢像といふ桜、黒梅、桜梅、西湖梅、青葉のもみぢ、六本此寺に有しとなり。・・・梅・桜はいづれもから国より伝へしと聞し」。いくつかは江戸時代にもひこばえとして残っていたらしい。玉簾はいま跡地をのこす三重塔にあったという(廻国雑記)。

 また、伝説の「金沢猫」そのひとかどうかは知らないが、ここにも人なれした野良があるいている。お経をかじるねずみ退治のため、とおい異国からよばれてきたとか。


 称名寺の鐘はまだ吊られていて、近年は鳴らさなくなったとはいえ、目をこらせば実時(1224-76)や顕時(1248-1301)らの名をよむことができる。「大日本国武州六浦庄称名寺鐘銘」ではじまる銘文は「諸行無常・・・寂滅為楽」などの詩句をきざみ、まず先祖や結縁のひとびとの成仏をねがい、「大檀那越後守平朝臣実時」が文永己未のとし1269、はじめて造った旨をのべる。

 この鐘は正応年間に割れてしまったため、正安辛丑1301に改鋳が行われた由が続く。大檀那は「入道正五位下行前越後守平朝臣顕時(法名恵日)」であり、住持は「審海」、鋳物師大工は「物部国光」「同依光」、銘は「入宋沙弥 円種述」「宋小比丘 慈洪書」。この年号は円覚寺の巨鐘とおなじ年であり、大工の物部国光も東漸寺永仁の鐘1298や円覚寺と共通している。小ぶりにかんじるのは、円覚寺の造鐘をはばかったものだろうか。

 称名寺につたわる金沢北条五代、実泰・実時・顕時・貞顕・貞将の画幅のうち、顕時だけは威厳も貫禄もない、比較的貧相なすがたにえがかれる。畳も日用品のようで、画風もスケッチに色をつけたよう。これは公的な顕彰を目的とするより、本人に似せようという家族的な意思のもと、親密にえがかれたものなのだろう。顕時の妻は底抜けの井のでんせつに登場する千代能(安達泰盛女)で、顕時も霜月騒動に連座、出家して失意の時期をすごしたこともあった。


 開基・金沢実時の墓は裏山にある。顕時・貞顕の墓は文庫への旧トンネルのわき、ちょっとした平場にあり、中世の境内絵図にものっているので、位置はだいたいあっている。絵図にはそのほかにも「先代一門、次郎入道殿」「檀那南殿御廟」などの墓地・墓塔があり、現在地にはなにもないので、いくつかの塔は移動・整理されているのかもしれない。

 付属する「結界記」によれば、絵図は鎌倉時代につくられた1323らしいが、追記もあるようで先代一門とは北条一門をいみするのだろう。次郎入道は顕時の兄・篤時などの可能性もあるが不明。「貞顕崇顕」は1326年の出家だから、かりに寿塔をえがいたものだとしても作図当初の注記ではありえない。出土した青磁の骨壷などにより、いまの伝貞顕墓は顕時墓ではないかといわれる。東勝寺で玉砕1333した貞顕に、遺骨はないだろうから。

 実時墓をしめす「本願、同谷殿」には印塔もえがかれているので、破損はひどいがたぶん、これでいいのだろう。「谷殿」は貞顕母の呼称らしいが、ここはむしろ実時の妻で顕時の母である金沢禅尼(政村女、?-1320)の誤記とかんがえたい。


 文庫は学者肌であった実時が死の前年、金沢に隠居してのこした蔵書に由来するという。中世において、巨大な文書群は政治行政司法の規範であり、いまでいえば司法試験における過去の判例のような、絶対的ないみをもった。過去を否定するマルクス主義のじだいには、前例踏襲主義だとしてあらゆる反省をかなぐりすてたが、我意にまかせて運営するそのような国は例外なくきちがい国家におわっている。

 宮中には内裏と太政官外記庁に一本御書所がおかれた。大江佐国という伝説の学者は膨大な外記日記を独力で書写、死後は蝶になったとつたえる。鎌倉にも三善氏の名越文庫や大江氏の長井文庫、佐介谷の松谷文庫がしられた。公方府時代にも、永享の乱で北関東に亡命した上杉憲実が、山内から文庫を疎開して足利学校をつくった。これらもたんなる子弟教育とか知の道楽などではなく、権力を規定するあらゆる情報・良識の源泉として、ほぼ公的ないみあいをもっていた。


 文庫はやがて荒廃し、江戸幕府がみずからの紅葉山文庫にうつすなどしたため、蔵書印のあるものがいまでも数多く、各地の文庫などに散在している。現地にのこるのは人気のないお経や雑然とした反故帳簿のたぐいだが、そういうものにはかえって、未発見古文書の裏面を再利用したものがひそんでいたりする。。

 太宰春台の紀行には「其の僅々に存する者も人尚其の名を知らず、徒らに暗室に倚畳して虫鼠の害する所と為す。勝て惜しむ可き哉」。明治になって、伊藤博文が文庫の廃絶をおしみ、子院の土蔵などにのこったものをあつめて再興に尽力した。伊藤公は女好きの狒々と評され、芸者などを呼びながら明治憲法の草案をかいていたといわれるが、あんがい奇特なしゅみもあったようだ。

 いまでは貧弱な博物館となり、図書室も特になんということもない。中世の文書館をなのるならば、マイクロフィルムの古文書などを、もっと容易にみられるようにするとかの工夫がひつようなのかも。


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