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もちださんの鎌倉リポート No.186(2015年12月30日)



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曼荼羅堂とその周辺・1


 密集型やぐらがみられる「まんだら堂」へは、逗子から「亀ヶ丘団地周回」のちいさなバスをつかうと楽。名越切通しのみどころ「おおほうとう」のすぐそばにおりられる(団地北)。

 いまでこそ登山路や散策路が整備されているが、いぜんはけもの道のようなものも多く、山のなかの茅場や畠のようなところを経巡って、日暮れちかくまでまようこともあった。バスもたぶん来ていなくて、宵闇の団地を小坪まで歩いて下りたことを覚えている。山林のなかの道はもはや廃道になってしまったようだが、名越の切通し周辺に、なぞの平場や切り岸が広範囲に分布していることは、いまあらためて注目されつつある。


 名越の切り通しはおおがかりな山城なのだ。そこにいくつかの道が貫通していて、山頂の分岐点のあたりに「本丸」のようなものがある。その壁に大量の「やぐら」が彫ってある、つまりそこが「まんだら堂」と伝えられてきたところ。

 主要道路の片側に防衛上の曲輪をもうける城郭はめずらしくない。律令時代の国府や関屋なども街道が貫通しているのがふつうだ。鎌倉でも大仏坂の外側や朝比奈口の内側に、小規模ながらいくつか平場をもうけ、やぐらを刳って平時は石切場や火葬場などに利用したらしいぶぶんがある。有事以外は、僧侶などに見張らせておいたのだろう。

 見学できるのは下図のB群と奥のA群で、ハーモニカ状に規格化かすすんだ4階建てのB群のほうがあたらしく、銭洗弁天や釈迦堂トンネル上部にある、室町期のものと似ている。小高い展望広場の下にあたるC群は、「おおほうとう」の崖の真上でもあり、危険なため立ち入り禁止。調査後多くはすでに藪にもどっている。外側にむいたやぐらもあったから、かつては大切岸方面からくる崖沿いの道が存在したのかも。いまはくずれて、「お○屋敷」とかよばれる民家のアプローチになっている。


 かつて「まんだら堂」といえば紫陽花・あやめの名所だった。日蓮行者のバラックふうの庵が奥にあって、浄財であたりの手入れをしていたようで、妙行寺、といっていた(レポ23参照)。やぐらにも遊歩道のようなものがあり、上の段にむかう木製の桟道がもうけられていたり、B群とA群のあいだをトンネルのようにつながったやぐらがあったりした。現在は遠巻きに生垣が設けられ、ロープが張られているため通行はもちろん、個々のやぐらに近づくことすらできない。

 敷地もかつてのゆるいバラ線から立派なフェンスに囲まれるようになり、公開日も限定され、監視ボランティアが無料でリーフレットをくばっている。遺跡保存や危険防止などのやむをえない措置なのだろう。しかしかつての散策路の名残りをロープのむこうに見るにつけて、今の若者はこれで満足なのだろうか、歴史に触れているのだろうかと、ちょっと残念な気もしてくる。かつての和尚と現代の専門家、どちらがほんとうの歴史をみせてくれたのか。


 かつて、うえの方の尾根をへて、物見台のようなところへたどりつき、暮れなずむ逗子の町をみおろした。そこはたぶん、現在「展望広場」といっている場所なのだろう。いまは袋小路になっているが、ここからはB群の立体構造を俯瞰することができる【写真1】。半円形の斜面にひな壇のようにならんだやぐら群の配置を、ここまでコンパクトに眺められるのは「まんだら堂」ならでは。まさに天井桟敷だ。

 城郭としても、いろんなしかけがある。だが、ここが戦場になった、という記録はない。三浦氏は公方府と対立したり、後北条氏と戦ったりもしたが、敵も味方もこんなむきだしの要害地区を突破しようとはかんがえなかったのかも。姫路城にだって何段にもわたる九十九折りの平場があり、天守閣なんか忍者屋敷のようだけれど、そこまで敵がくることはなかった。凝りに凝った巨大な防衛施設はむしろ、抑止力としてはたらいていたのだろう。


 まんだら堂いがいの平場もいくつかは整備されている。西平場は尾根筋にあり、かつてはそこにも無縁墓が散乱していたらしい。他にも無縁諸霊碑などを置いた場所があり、まんだら堂の敷地でも火葬跡がみつかっている。現在は上掲地図のコンパス‐ローズ(方位記号)あたりの谷底に近代的な火葬場があり、詩人の中原中也なんかも、ここらへんで荼毘にふされた。

 東平場【写真】は谷筋に段々畠状につづいていて、大切岸の下のお猿畠ににた構造。掘り割り道をくだると、下段にいくつかやぐらがある。もっとずっと下の畠の奥の林のなかにも、いくつか低い切岸があったのをみたことがある。

 戦国時代までは城は御殿というより陣地にちかく、場当たり的に、際限なく拡張される傾向にあった。あの織田信長の安土城でさえ、近世的な主郭部分いがいはこういう貧弱な、鱗状の曲輪が無数に分布している。山城は土地も広大だし、土木というのは意外に手間も費用もかかるのだ。天下が静まって、時間的な余裕ができるにしたがい、半成のちっちゃい曲輪なんかは無用になり、「埋め殺し」などといって、大規模に削りとられたり埋め立てられたりしてしまうのだろう。


 名越の山城遺構は後北条氏関係の記録にはないし、土塁や横堀を多用する後北条氏とは築城傾向もちがう。やぐらの存在などから、鎌倉末期の14世紀から15世紀の公方府終焉前後にかけて、こつこつと増築されていったと考えたい。

 現在の切り通しは基本的に近世ころの路面を継承しているらしい。逗子久木の岩殿観音まえから亀ヶ丘団地をへて名越踏切までおりる道で、「おおほうとう」とよばれる第一切り通しふきんでは、谷側の壁が内側へ崩れ落ち、一部が極端にせまくなっている。その壁のうえをあがる迂回路(写真中央)もある。

 【写真】の奥側は逗子方面で、急坂を曲がりながらのぼってくる特徴的な虎口構造をしめしている。登りきったてまえ側は前述C群のやぐら面に比較的ちかいので、近世までに多少の切り下げがあったにせよ、ルートが変わってしまうような変化はなかったとおもわれる。屈折部には路肩に雪を積んだように路面が二重になったぶぶんもあり、道がうまっては、一部を深く、または浅く掘り返したりした「時代差」のなごりのようだ。大規模改修なら、そんな雑なことはしない。


 大切岸はまんだら堂の裏側、東北ぶぶんにのびる尾根筋を水平に切り、向かいの浅間山(*通称・水道山、パノラマ台)まで延々と、うすくカーテン状に加工したもの。ひとひとり通うような犬走り状の構築は鎌倉のいたるところにあるし、尾根頂部を長城のようにきざむ構造は稲葉越えの道がかよう杉本城や大御堂の上などにもみられる。きわめつきは浅間山側のつけねにもやぐら群があり、下のほうにも無数に平場がつづく。「近世以降の石切の跡」などといった巷説では、巨大な遺構のほんの一部についてしかつじつまがあわない。こういうのを「毛を吹いて疵を求む」とか「再開発のための論理」とかいうのだろう。

 浅間山砦の先は黄金やぐらのうえ(ハイランドの縁り)を通り衣張山、伝名越亭をへて大蔵・浄明寺といった中心地にいたる。防衛上、こちらも重要なルートだったはずだ。近年、大切岸の付近にも散策路が整備され、岩盤が連続する尾根筋直下の平場を安全に通行できるようになった。ただ、下のほうにも段々と続く平場(お猿畠)をみおろす雄大な景観が、余計な生垣のために、かなり損なわれてもいる。


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