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もちださんの鎌倉リポート No.187(2016年2月10日)



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曼荼羅堂とその周辺・2



生垣がさえぎっています
 そもそも「まんだら堂」の堂とはなんなのか。ふきんの小字というだけで、それらしき堂の跡は確認されていないし、伝承すらない。現存する曼荼羅堂は、奈良県にある以下のものがよく知られている。

 国宝当麻曼荼羅をおさめる当麻寺本堂(1161改築)と、智光曼荼羅をまつる元興寺極楽坊本堂(1244改築)。そのほか清海曼荼羅など、奈良時代のふるい阿弥陀変相図が中世にいたり、「浄土曼荼羅」と改名して一躍脚光をあびた。中世の奈良は鎌倉極楽寺ゆかりの叡尊・忍性一派ともかかわりふかく、かれらは中世奈良最大の葬地となった般若野五三昧にも「曼荼羅堂」をたてている。


 中世を席巻した浄土教のブームをきずいたのは恵心僧都源信の「往生要集」。凡人が往生を確信するには念仏がひつようで、とくに美しい浄土のすがたを空想する「観相」とよぶ修行をすすめた。そのため浄土の「見える化」がすすめられ、阿弥陀浄土を模した平等院のような楼閣寺院が数多くつくられるようになり、来迎図、浄土図などがさまざまにえがかれた。ふるい阿弥陀変相図が再発見されたのも、このベスト‐セラーのおかげ。鎌倉でも木版本が出版されていた。

 曼荼羅というと、大日如来が無数に分裂して大宇宙をつくっているさまや、さまざまな位相に変身してゆくのを複眼的・記号的にあらわしたものがふつう。奈良時代いぜんはまだ雑部密教の時代で、そもそも曼荼羅なんてものはなかった。しかし南都仏教のがわでも、密教思想や、浄土ブームはとりこみたい。そこでたんなる浄土図を、大日如来のコスプレ(変相)の一種であり、これもまた曼荼羅世界のワン‐シーンであると強弁して布教した。神社の図絵に梵字をかき加え、「春日曼荼羅」などといって布教したりもした。


 元興寺極楽坊はもともと僧坊だったのが独立寺院のように改築され、いつしか貴賎の葬地ともなって、一条兼良の分骨もおさめられたりした。この堂には当時の民衆の寄進状を刻んだ柱まであり、千体地蔵や籾塔、杮経など、さまざまな納入物の残片も発見されている。人々が雑踏するこんな場所に、こぞって遺骨まで納めたのだ。

 曼荼羅堂の特徴は、これまでの内陣中心の仏堂から増改築をへて外陣、すなわち参拝者用の居住スペース(庇の間)が飛躍的に拡大した点にある。物語などで、はなればなれの恋人がたまたま参籠した本堂のうしろ戸で偶然の再会をはたす、なんていうのは広大な宿泊スペースがあってこそ。会葬や回忌法要を催す斎場としても、仏堂の四周をめぐる床敷きの空間はおおぜいの参会客にとって都合がよかった。

 鎌倉で出土する仏堂もまた、縁側の束石がめぐったものが多く、住居風の床張りのものが好まれていたようである。基壇は縁の下にかくれてしまうため、木製であったり土壇(亀腹)だけのものが多い。極楽坊は現在も畳敷きで、足をのばしてくつろいだりできる。鎌倉とのつながりをうかがわせる、叡尊の像もあった。



トンネル状や、なかで多層階になったものも
 当時の律僧は四宗兼学で、五輪塔を発明した新義真言宗は浄土宗西山派ともかかわりがふかく、奈良長谷寺を中心に発展。覚園寺に法脈をひろげた俊芿一派は天台・禅宗にも造形がふかかった。

 忍性は鎌倉大仏の別当になり、前浜や和賀江島を管掌し、浜の葬地にもかかわりをもった。奈良の曼荼羅堂という文化をもたらしたとすれば、まず叡尊・忍性一派をかんがえるべきだろう。ただそれが直接「まんだら堂」の地名にむすびつくかどうかはわからない。

 おびただしい五輪塔はたしかに律僧の活躍をものがたるが、ずっと後世になって住み着いた、あの妙行寺の日哲さんのような者がささやかな小庵をたて法華の板曼荼羅を本尊にしたのかもしれない。あるいはまた、無住法師がつたえるように、亡者の髪の毛で種子を刺繍することがはやったこともあった。これは伊豆山神社の旧法華堂に、北条政子が夫のために自髪でつくったと伝える法華宝塔曼荼羅がつたわっている。いずれにせよ、そこはなんの記録も伝承も、のこされてはいないのだ。


 材木座の光明寺には鎌倉時代のものとされる当麻曼荼羅の模本のほか、さる大名家が寄進した国宝「当麻曼荼羅縁起絵巻」もつたえられている。この地域では、かつて浄土真宗や日蓮宗不受不施派などの弾圧がおこなわれた時期もあった。戦国大名の後北条氏は軍事教団をきらったし、徳川は不受不施の反抗的な態度をにくんだ。幕府が光明寺をおもんじたのも、このふきんに管掌すべき零細宗教家がおおくあつまっていたからなのかも。

 名越の地名は峠がきびしく「難越え」とも、要害の警護員が当直する「根小屋」ともいわれるが、山王堂(電通保養所ふきん)から経師が谷まで相当広範囲におよんでいる。あるいはこれは、おなじ「難越え」でも峠ではなくて、津波が越えてこない「勿越え」のことかもしれない。前浜付近は漂没する危険があるから、かつては三等地として無主の土地となり庶民があつまった。庶民はそんな場所にも土葬の墓地を営んだが、武家クラスはそうではなかった。流されない場所は宅地化がすすんで、死者の土地は山の上にしかなかった。


 山岳城砦はふつう、有事いがいはからっぽのことがおおかった。ただ人口密集地の中世鎌倉では、「気和飛坂上」のような高い位置に小町屋が作られた記録もある。坂の上には坂者という遊民がすむこともあった。

 切り通しにちかい交通の要地ならば、運送人足を置くメリットはあっただろうし、とかく公害や悪臭をひきおこす諸工業も、街のそとのほうが都合がよかったかもしれない。ちょっとした畑くらいなら、お猿畑でもつくれる。

 都市は将軍のもので私有地でもあり、流れ者はみだりに住めないからあぶれ者は境界の外にすむことになる。韓国では月の町(タル‐トンネ)といって峠の上などにムシロ小屋をたててすむ労働者街がさかんにつくられた。年貢をのがれたルンペンとして、火田民・土幕民などと賎民視されてきた歴史がある。近年は強制撤去によって青テントもバラックも減ってきているが、そこは異世界で、地球外の裏斜面にまで追い払われた者、というほどのニュアンスだったらしい。


 近世、農村化した鎌倉では適宜山すそにも焼き場をもうけたようだが、中世では「地獄谷」といって町の裏斜面にまで登っていって死体(穢れ)を棄てた。小坪の焼き場なんかも、かつてのそうした位置にあたっている。

 京都では清水坂がその場所にあたっていて、現在でも新清水坂の南谷沿いに鳥辺野霊園があって僅かに雰囲気をつたえている。にぎやかな観光ルートのすぐそばに、異界の入口がもうけられているのだ。ほんらい不浄の空間をこの世とつなげてきたのは仏法だった。喪中の家にはいったり、喪中のひとが家にきただけで「触穢」とされ、厳格な物忌みが義務付けられていた中世の社会において、寺院の境内のみは、そのかぎりでなかった。仏教にとって、浄不浄、生死の境などただの夢幻にすぎなかったからだ。これも曼荼羅世界の、ある種の魔術だったにちがいない。


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