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もちださんの鎌倉リポート No.188(2016年2月14日)



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武蔵七党


 普済寺は立川駅の南西、諏訪通りを道なりに徒歩30分。多摩川の支流・旧「根川」の段丘上にある。本堂は20年ほど前に放火で焼けてしまい、新しい。塚からでた板碑群も損傷してしまったという。

 本堂のうら、池をへだてて崖沿いに立つ国宝・六面石幢1361の覆い屋は無事だった。角柱をもちいたいっぱんの石幢ではなく、板碑に似たうすい石材六枚を台石と笠石にはめこみ、電話ボックスのようにくみたてたもの。青石製六面幢には板碑のように梵字を彫ったものもあるが、ここのは唐の貫休(禅月大師832-912)が描いたという儀軌にもとづき、六面に仁王と四天王を陽刻平面彫りの優美なレリーフにしてある。


 これはお堂にぶらさげる六枚組の幢幡(レポ167)をあらわしたものだから、一枚物の板碑も一枚物の旗を表したかとする説に示唆をあたえる。鎌倉大町の日月やぐらにも板碑ふうの磨崖連碑がきざまれ、天蓋蓮弁をあしらい月輪ぶぶんを丸く龕に刳って、かつては梵字や懸け仏を表した蓋石か銅鏡をはめこんだあったとみられている。またやぐらの壁面に軸物をかけた痕跡や、別製の板碑を直接はめ込んだ例もある。

 ただ板碑には「卒塔婆(塔)」と刻んだものもおおく、角材でつくった一般的な石幢も笠塔婆としてつくられたものが多いので、旗なのか塔なのか、そこの区別はなんともいえない。青石製六面幢にも「六角塔婆」と刻む例があるが、このかたちのものは他に三つ(埼玉県)しか現存していない。

 一般的な石幢には燈籠状の仏龕をともなうものがあり、ここのも全体を仏龕とみなすなら、仁王や四天王が守護するなにものかが、中心に納めてあったとみなすこともできる。青石石幢のなかは元来中空なのだが、たかさは2mほどもあって、数人分の骸くらいなら、楽におさまるかもしれない。笠石は経筒のふたを思わせる。


 普濟寺は立川宮内少輔宗恒という者が、建長寺の物外可什(1286−1351/64)をまねいてひらいたとされる1353。もとは武蔵七党・西党にぞくする立川氏の館だったとされ、本堂わきの土塁はその跡、墓地の「首塚」からでた板碑は天正合戦にほろびた一族代々の廟のなごりとみられている。合戦とはおそらく秀吉の小田原攻め。いまも首塚にたつ石扉は、かつてめぐらせていた石の玉垣の破片らしい。

 武蔵七党には諸説あり、「横山・児玉・猪俣・丹(丹治)・西(西野)」は一致するがのこりのふたつ、「私市・村山・綴・野与」については異同がある。綴党は横山に付属するとか、離合集散の問題もあったようだ。西党は古代の武蔵守日奉宗頼なる者の末裔をとなえ、立川氏は一の谷先陣で名をあげた平山氏(日野市平山)につぐ出世頭として、宝治合戦・永享の乱などにもかかわった。

 ただ古い文物はあまりのこっておらず、石塔では京王堀の内にある、松木七郎藤原師澄の墓とつたえる「永和二年丙辰」宝篋印塔1376が最もふるいもののひとつ。人物と印塔とはやや時代が食い違っているが、松木七郎は公方持氏の臣下とされるから、あるいは立川氏とも縁者だったかもしれない。


            施財性了立
延文六年辛丑七月六日
            道円刻

 西面(正面左)にあたる広目天像の余白にこの銘がみえる。性了の事跡は不明ながら、開山の物外可什の弟子で、この時期大乗経典などを木版に刊行し、寺の隆盛につとめていた実質的な住持だったようだ。物外可什は鎌倉報国寺の天岸慧広らと渡元し、雪村友梅・竺仙梵僊・明極楚俊らをともない帰国1329。中巌円月の「東海一漚集」には、べつに渡元した彼とも行動をともにし、別々に帰国後も藤が谷の庵にたずねてくることがあったと記されている。建長寺天源庵で没したというが、異説もあるらしい。「本朝高僧伝」の1351年没説だと死後開山ということになる。性了らがつくった開山の像1370などは、さきの放火で焼けてしまった。



覆い堂は右の木の間にある
 横浜では何週間もまえに溶けた雪が、道端にまだのこっていた。武蔵野台地は多摩川の河岸段丘がゆったりとした崖線をえがく堆積地。右岸の丘陵地でのような混みいった谷戸をつくらず、比較的開墾しやすい、平坦な土地柄だ。

 府中に国府がおかれた。江戸期には農業用水が縦横に整備され、大田南畝らが視察かたがた歴史探索に訪れている。近代には郊外都市として発展したため、遺跡の指標となるゆるやかな高低差などはもはやうしなわれつつある。

 多摩地域には、多くの塚や板碑が、すくなくとも幕末まではのこっていた。しかし戦国の世に支配者が替わり、地域の由来をつたえてきたはずの寺々のれきしはごっそり抜け落ちてしまっている。たとえば八王子市加住町の龍源寺(後述)などは、あらたに入部した織田信長の家臣による「再興」、といったぐあい。高尾駅ちかくの旧家では、幕末に畑から「嘉元四年」の板碑をほりだして、もの珍しさから参詣があいついだという。


 武蔵七党の筆頭とされる横山党は、参議小野篁(802-853)の子孫を称した。先祖は遣隋使・中納言・武蔵守征夷副将軍などに任じている。篁の子孫といえば純友退治の武人小野好古、書道家の小野道風、歌人の小町ら、いずれも文武に名をはせた。

 八王子ふきん、多摩の横山を本拠として武相地区に展開。独立系相模武士としても海老名、愛甲、本間、中村、大串、中条(評定衆)など数多くの名族を輩出し、横山氏は和田義盛を婿にするなど鎌倉武士にもっともちかかった。JR横浜線沿線にも矢部、成瀬などがこの系統とされ、鶴見小野なんて地区もある。小栗伝説での横山は残忍な悪党だが、その娘・照手は心優しいヒロインで、「小町」の血筋を証明している。小栗を試した鬼鹿毛という名馬は、横山党が支配した武蔵の牧の記憶だろう。


 八王子駅南口駅前を右折し、そのまま寺町を西にいったところに無料の郷土資料館があり、駅の東北・浅川対岸の大和田町から出土したという、金泥ののこる「正中二年」の板碑がならんでいる。これは八基が立った姿で埋っていたもので、建立時期(1322〜25)がかなり接近していた。元弘の変か中先代か、造立直後におこった大乱で亡び去るまえに、一族そろっての係累をさけるため、親兄弟のぶんをあわてて埋めかくしたのではないかとみられる。

 通常は墓域がいっぱいになって、墓直しで処分されたものが一箇所に大量にうめられていたりする。あるいは屋敷墓に数枚移設されたものもあり、最終廃棄のすえ破断されたものもある。金泥がのこるものは幾ほども経ずに土中にさらされたのだろう。調査後に現地の遺跡はうしなわれてしまったとはいえ、ほんらいの場所に立てられたままみつかる、というのはかなりめずらしいようだ。


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