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もちださんの鎌倉リポート No.189(2016年2月15日)



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武蔵七党・2


 八王子駅南口の寺町界隈には、いつでも見学できるめずらしい板碑がいくつかある。興林寺のものは上部に「キリーク(阿弥陀種子)」の梵字月輪をきざみ、中段に大日三身真言を梵字で三行、下段に「弘安六年癸未/六月二十六(日)」1283の日付を二行にきざむ。その下に(禅尼覚心)とよむ説があるが、それはほとんどみえなかった。

 もとは歴代住職の墓地にたったまま頭まで埋まっていたといい、そのため頭がすこし欠けている。「風土記稿」には寺の東にも塚や古碑があったとしるすが、それとは年号がちがっている。「弘安」の弘の弓へんが方となっているのなどは、板碑によくみられる異体字。「六年」の六の字が赤いのは、光明朱か金箔の跡だろうか。


 大日三身真言とは中央「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」、左右に「ア・ラ・ハ・シャ・ノウ」「ア・バン・ラン・カン・ケン」。それぞれ三位一体である大日の報身・応身・法身を示し、阿弥陀大日同一説では阿弥陀・観音・勢至の「弥陀三尊」に相当する。

 禅尼というのは禅門・居士大姉などとおなじく俗人の戒名位号なので、北条政子(二位禅尼)のような、武士の妻ないし未亡人とおもわれる。中世には、生前に菩薩戒などの平易な戒をうけて法名をさずかり、在俗のままくらすのはごくふつうの習慣だった。見習い僧レベルに達すると、さらに戒をさずかり沙弥・沙門を名乗る。中世には律宗を中心に、戒壇によらない、自誓戒のようなものもひろまっていた。

 ちなみに、中世には禅宗の影響などから「院号(房号)」「道号」などのさまざまな称号がうまれた。たとえば「沙石集」の道暁などは一円房無住道暁禅師などという異称の一部のほうが、よくしられている。これが葬式用の、あの長たらしい戒名のルーツでもある。


 本立寺にある阿弥陀三尊種子板碑には「建武三秊(丙子)貳月十七日(沙弥/脩阿)」の記年1336があり、左右に「其の男女追修の福を以って大金光有り、地獄を照らし」「光中に微妙の法を演説し、父母を開悟し発意せしむ」という経文がきざまれる。

 これは「心地観経」というお経の三巻め、報恩品第二下の文とほぼおなじ。「親は子供のために知らずいろんな罪を犯す。地獄におちても凡人には罪をあがなうことも、救うこともできない。だが追善の功徳をつめば地獄にも法文がきこえ、父母も改悛してみずからその罪を消し、かならず上天に往生し成仏できるのだ」。どうやら脩阿という出家が父母追善のためにたてたようである。これも一家一族あい分かれてたたかった南北朝の動乱が、その背景にあるにちがいない。


 「あれは日蓮宗のものじゃないんですよ」と住職は苦笑されていたが、報恩をとく「心地観経」じたいは、日蓮聖人もふかく帰依していた。本堂には「日昭上人作」のちいさな聖人像などがまつられ、「註画讃」絵巻のレプリカなんかがあったが、ゆるやかな崖線の痕跡に沿って門は北向き、お堂もなぜだか西を背にしている。

 寺伝では、寺はもともと滝山城か八王子城の城下にあり、真言寺院だったのを法論でむりやり折伏して奪い取った、というおなじみの武勇伝が語られる。しかしその年代が天正から慶長にかけて、ということを考え合わせると、むしろ小田原合戦前後における領主の没落、という事情のほうがおおきかったのではないか。無主になっていた真言浄土系の荒れ寺を、日建なるものがあたらしい領主(原刑部胤従)からもらい受け、日蓮寺院として再興した、というわけだ。

 異教の板碑を廃棄しなかったのは、聖人ゆかりの経文が決め手になったのだろう。正式には「大乗本生心地観経」といい、日本出身の遣唐僧・霊仙三蔵がインド僧般若と協力して訳したという、いわくつきのもの。霊仙については遣唐僧円仁が、唐での足跡を確認している。


 さらに西にすすめば、信松院という、武田信玄の娘の寺がある。八王子千人同心は武田家の旧臣だから、織田信忠と婚約するなど数奇な運命をたどって生き延びた姫君はいわばお主様。八王子宿の心の中心だった。郷土資料館はてまえにある。

 資料館には八王子を代表するふたつの板碑のレプリカもあった。実物は非公開だったり、展示されていても細部がみえにくかったり、郊外にあって駅から遠かったりもするので、これはこれで有難い。宇津木町龍光寺の六字名号板碑1353は、「文和二年十一月二十七(日)」の記年とともに「他阿弥陀仏」ほか時衆の阿弥号約百人分が余白にびっしり刻まれたもの。筆頭の他阿には蓮弁もきざまれ、まさしく遊行上人他阿弥陀仏・・・追刻でなければ当時は八代渡船上人・・・の来訪を記念するもののごとくだ。


加住町龍源寺の月待ち板碑1448は、阿弥陀三尊種子のほか、天蓋上に日月が強調されるなど、やがて庚申塔類に移行する中世後期の特色がよくあらわれている。阿弥陀の月輪には光明真言がめぐっていたりと、細部の彫刻はなかなか手が込んでいる。文字部分はあまり上手ではないが、左右には善導の「往生礼讃」を引き、阿弥陀の顔を満月にたとえ、威光は無数の日月のよう、美声は天の鼓か幻の鳥・倶翅羅かと称えている(十二礼のB)。

 面善円浄如満月威光猶如千日月
  月待人数廿三人敬白
   文安五年八月廿三日
  谷慈郷代屋村住人
 声如天鼓倶
 翅羅故我頂礼弥陀尊 


 月待ち二十三夜とは真夜中にのぼる半月の出を待つ行事。満月は阿弥陀大日、その前後の月は観音、二十三夜は勢至菩薩にたとえ、三尊満願の夜、村の安全と豊作をねがい、あるいは武運長久、三を産と掛けて子宝の日とか、女子供の守り本尊ともされた。これらは村の集会・講を目的としたものだから、満月だと早く出すぎて行事にはならない。少数ながら十三夜(本尊虚空蔵)十九夜(如意輪)二十六夜(愛染)などをまつる講もあった。

 これらは神仏のまつりが庶民の手にうつりつつあったことをしめすとともに、神社の玉垣などとおなじく、結衆の人数が多ければ多いほど有難い、というような融通共助の思潮を具現したものなのだろう。もともと極楽往生専一の仏であった阿弥陀三尊が、しだいに日月天子、田の神などといった他のあらゆる神仏と習合して神秘化にむかっていることも、注意すべきだ。これがいつ出土したかは不明で、江戸時代の「武蔵名勝図会」巻九には図入りで紹介されている。


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