トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第19号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.19(2008年1月11日)



No.18
No.20



もうひとつの稲村ヶ崎・2



山腹中央から右に降りるスロープの前身が稲村道。稲村崎と霊山とをへだつ中央のくびれは、宅地造成でやや拡幅されているようだ。
 古文書では「塙政茂軍忠状」が、極楽寺坂の先手に駆け回り、5月20日に霊山で合戦があったことをしるす。「熊谷虎一丸軍忠状」では、父直春がこの日、新田経政に属して霊山の下で討死したとする。「三木俊連軍忠状(和田文書)」では霊山寺大門にこもった敵が稲村道の新田軍をさんざんに射た、という。

 稲村道では、木戸や波打際まで連ねていたというバリケード(逆茂木=とげ)、坂ノ下側の守備兵のほかに仏法寺(霊山寺)のある中腹からも横矢が降ってくるという激戦があった。大門のところで道は断崖にでるから、射られたらまっさかさまというわけだ。霊山はかつて、いまよりずっと高い位置をとおっていた極楽寺切通につながる尾根(現在崩落)などをつうじ、大仏坂から長谷大谷戸あたりへつづく北方の防壁にも連絡していた。時間をかければかけるほど、守備兵がここに集中してしまうことにもなる。

 北条氏は、鎌倉をめぐる山稜部にもうけた要害や拠点を移動しながら、重点ごとに新田らの大軍を効率的に退けていた。霊山の五合枡や、極楽寺裏手の一升枡砦は、この当時からの陣地の一つではないかと推定される枡形遺構である。ここでいう枡形は土塁や掘割(空堀)で四角くかこった曲輪のことで、尾根筋が一点に集まる峰を封鎖するように設けられているらしい。山稜部の移動を確保するため、そこはけして敵に奪われてはならないからである。

 鎌倉方は、切りたった尾根々々をむすんで羅城(防塁)にみたてていた。無用の長物、のたとえもあるように、羅城の欠点はただ長いだけのことだ。たとえば大仏坂には敵がこなくても、そこにも一定の軍勢は置かなくてはならない。もし守備が間延びし、一点が破れたら横にいくら長くても意味がない。正面の敵と対峙しながら、背後を侵入したゲリラにおびやかされ、塁上に孤立したまま、滅びゆく街の煙をゆびをくわえて眺めなければならなくなる。つまり義貞のねらいははじめから夜襲にあったらしい。


極楽寺の裏、稲村ヶ崎小学校の背後にみえる尾根の共通の頂に一升枡砦がある。ここも一般の登山道はない。



仏法寺跡からみえる坂ノ下の防波堤。この崩壊面の先はかつて大門におりていた部分と推定され、稲村道の断崖の下はすぐ海だったようだ。
 坂ノ下のパークホテル付近は現在埋め立てられているが、おそらく当時は稲村道が通っていた断崖の下に、ごくせまい浜地があっただけだろう。北条氏は稲村道のスロープはもちろん、その崖下の砂地にまで逆茂木をかさねていた。新田方はまず、こうしたバリケードを撤去する必要があった。霊山の激戦の最中、岬に近い側から綱などにすがり付いてひそかに波打際にまわり、月明かりの中、逆茂木を壊した工作部隊がいたかもしれない。

 もちろん当初、波打際を突破できたのはごく少数だったろう。北条側は軍艦をうかべて横矢を射たというが、薄明かりのころ敵味方斬り合いになっていたばあい、沖からのめくら矢はあまり効果的ではなかったはずだ。坂ノ下から飯島にいたる現在の浜の総延長よりひろい2500mもの干潟、というのは伝説に過ぎないとしても、崖下は意外に盲点であって、市内側や山の上からはよくみえないから、援軍を送るにも手遅れになった部分があるのかもしれない。潮騒がおめき声を消していた。21日、すでにここを通り抜けた一部の名も無き勇士たちが、稲村ヶ崎伝説のルーツになったとおもわれる【注】。

 稲村ヶ崎を突破したゲリラ部隊が市街に放火をはじめると、山稜部に布陣した北条軍に動揺が走った。もはや外縁部を守ってもだめだ、と持ち場を捨てて逃亡したり、葛西谷の高時のもとに参集するものもでてきた。22日、大仏貞直の陣もついに崩壊し、極楽寺口から本格的に侵攻してきた新田がたの脇屋義助軍に少数になったところを包囲され、戦死した。

 激戦は各地でもあった。はやくも18日には執権・赤橋守時が山ノ内の外側、須崎千代塚で玉砕。おなじ極楽寺一門の前執権・基時入道は化粧坂、葛原で壮絶な攻防を繰り返していたが、これも22日、敗死した。前日以降、前浜、葛西谷でも合戦があった。鎌倉の「外輪山」を占拠しはじめた敵は、里へ下っては繁栄した町並みに放火を重ね、最後のとりでとなった東勝寺に心理的な圧力をくわえた。むだな殺戮をつづけるか、いま、世のため人のためにみずから命を絶って戦乱にけりをつけるか。


北条常葉(常盤)邸跡。現在、湿地帯となっている。谷筋の奥は佐助の裏(梶原・葛原)につうじる尾根筋になる。



山頂付近からは大仏、市街、三浦半島までの展望があり、安全な遊歩道の整備がのぞまれる。
 正慶二年(1333)5月22日、北朝の暦は廃止され、元弘三年にあらためられた。生き残った将軍の宮・守邦は都に送られた。合戦の間、身を潜めていた夢窓疎石や竺仙和尚らも寺に帰った。すでに六波羅攻めで大功をたてた尊氏の子、千寿王丸(のちの足利義詮・4)が二階堂の別当坊へ入営すると、新田義貞(33)の人望は急速に低下。このままでは足利の家臣にされてしまう、ここははやく都に上って官位をもらうにしかずと、逃げるように鎌倉をあとにした。

 歴史は残酷だ。感動的なラスト・シーンなんかない。日々は淡々とすぎさっていく。

 北条氏の滅亡、そして新田氏と後醍醐天皇尊治のいっときの栄華と、無間の没落への入り口となった稲村ヶ崎。激戦地の霊山はいま、荒れるがままになっている。一般の登山道はなく、発掘調査時に見学させていただいたおそろしく急傾斜の踏み分け道も、いまはあるかなきかの深い藪だ。

 下り坂を一歩間違えば不意に崩壊面にでてしまう。枯れ草と腐葉土が分厚く積もっているところもある。景色につられて不用意に近づけば、足はどんどん沈んでゆき、背筋が凍る。草の種がジーンズやスニーカーを突き破る。振り向くともと来た道をほぼ完全に見失っている。・・・ほんらい、紹介すべきではないし、紹介してはいけない場所であることは言うまでもない。危険を冒さないことは、マナーの第一歩だ。

 張り紙禁止の張り紙を貼るかのようでまことに恐縮だが、世界遺産に向けての宣伝パンフレットにも掲載された遺跡でもあり、現在、たいへん危険な荒れ山になっていることをお伝えするのも、無意味ではないだろう。


崩壊面に近づくのはきわめて危険。元日、仏法寺跡。



霊山見取り図。右端が極楽寺切通し。
【注】 太平記にいう21日夜半は午後11時から午前3時ころ。当時の日付変更時刻は丑寅(午前3時)だから、今風に言えば22日未明ということになる(「有隣」430号によれば現在の暦では7月11日にあたり、干潮は2時50分)。21日に前浜の合戦がはじまっていたとすると時間の余裕がまったくないので、一日前の21日未明のあやまり、とする説もある。太平記には「その夜の月の入るかた」などの語もあるが、夏の下旬に月の入りはありえないなど記述に多くの矛盾がある。

次回は「神風は吹いたか」1・2・3の予定です。


No.18
No.20