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もちださんの鎌倉リポート No.190(2016年2月21日)



No.189
No.191



杉田日記・1



ワシン坂上
 1807年、国学者の清水浜臣(32歳・1776-1824)は杉田の梅の花を見にいった。友人に約束をすっぽかされ、ひとり旅になったのをもっけの幸いと、宮の渡し(下地図参照)をわたって名もなき野道をたどる特異なルートをえらんだ(青字は現代の地名)。半世紀後、突如ひらかれるあの港のあたりだ。

 江戸期の東海道は国道1号に準じ、海沿いから山側をななめに迂回し、箱根駅伝でおなじみの「権太坂」を経て戸塚へむかう。保土ヶ谷から折れる金沢道は、点線で示した中世までの縦ルートを踏襲している。これは金沢八景や杉田梅林への観光ルートで、離山(小袋谷)から鎌倉に入る鎌倉街道は当時すでにすたれていたらしい。幕末にノーエ節で知れ渡るようになった横浜道(野毛の切り通し)も、まだできてはいなかった。


 浜臣が横浜方面にむかったのは、吉田新田(現・長者町あたり)の村長につてがあったから。大岡川下流ははやくに干拓されていたが、なお関内ふきんに入り海を残し、北にむかって弁天の砂洲(横浜といへる洲崎)がのびていた。十一二歳の少年が巧みに漕ぐ舟は、宮の前から姥島という岩礁をめぐり野毛村のふもとについた。

 帷子川の河口は維新後、汽車道の造成によってうめられたが、当時は海。神奈川宿のはずれ、台というあたりは東海道の沿線でも景勝の地としてしられ、広重の五十三次にも描かれ茶屋や料亭でにぎわった。その裏山から見た古写真が現地の公園にかかげてある。いまは殺伐たるビル群がみえるだけだが、かつては「油の面を見たらんやうに平かなる海面」がはるかに見はらされた。その景色のうえに明治初年、汽車をとおす道がきずかれていった。



かえもん公園(高島台)
 この写真にあきらかなように、現在の横浜駅周辺はまだ海のなかだったことがわかる。野毛の姥島は対岸につくられた初代の横浜停車場(いまの桜木町駅)の造成によって消えたらしい。開拓事業者・高島嘉右衛門は、「高島易断」の創設者としてしられる。高島遊郭をつくり、外国人の接待もした。

 この海にくらべ、はやくに干拓がすすめられた大岡川河口、横浜の洲崎近くはもともと底の小石がみえるほど浅かった(遠浅にて、底の小石の数も読みつべきばかり也)と、浜臣も書いている。そこが埋まるのは開国直後、居留地とよばれる出島が築かれてから。ひなびた漁村であったもともとの「横浜村」は内陸となって元町と名を変え、村の鎮守・洲干の弁天は厳島神社となった【写真7】。砂洲の突端だった場所にのこされたお旅所(天女の宮居)も、いまは馬車道弁天通りの旧地から羽衣町へと移設されている。

 居留地はやがて本牧の鼻へつづく「ブラフ(崖地)」とよばれた痩せた台地・・・山手へと移動し、中華街だけがのこる。現在は本牧沖、大黒埠頭あたりにまで埋立地が伸び、巨大な橋がかけられて海はさらにせまくなっている。



なつかし公園
 浜臣は蒔田橋から金沢道にはいらず、山手の丘陵を横切って根岸にぬけ、磯づたいに杉田へむかったらしい。「海いと青く見え渡さる」と書かれたその岡は、明治になって掘割川の開削によってすっかり切りとおされ、いまは16号がかよっている。切り残された崖の上はかつて居留地がのびてきていたが、現在は米軍接収地。海岸もコンビナートに覆われた。

 根岸の「なつかし公園(旧柳下邸)」は、海をのぞむ風光の地であったころをしのばせる、明治大正期のモダンなたてもの。半分和式になっているのが特徴で、ここでは和館ものこされている。大正時代、フランス公使として日本に赴任し「繻子の靴」を執筆中だったポール‐クローデルは大震災の大火にみまわれた。なんとか横浜に戻ったものの領事館は全壊、居留地はすでに火の海。・・・そういうわけで、震災以前の洋館はあまりのこっていない。山手では「山手資料館」になっているもの(洋館ぶぶんのみの移築)が唯一らしい。

 震災前後の状況は有隣新書の「古き横浜の壊滅」という本にでている。根岸には監獄もあり、震災に乗じておおくの韓国人重犯者が逃げ、各地で強盗を働いている、などと噂された。


 藤沢の洋館・モーガン邸は近年、放火で焼けてしまったけれど、J.H.モーガン(1873-1937)設計の住宅は山手の「べーリック‐ホール」など、いくつかは保存されている。震災の復興にたずさわった東海岸出身のローカルな建築家であり、旧根岸競馬場一等馬見所(スタンド)など、いくつかのモニュメントをてがけた地域の偉人のひとり。外人墓地に墓もある。

 旧ラフィン邸(ブラフ111番館)の外観はエキゾチックなイベリア風で、パーゴラ(ぶどう棚)をあしらうなど、こちらはすでに本格的な洋館になっている。古きよき「大正モダン(アール‐デコ調)」もかんじられ、戦前の流行をよくつたえる建物だ。

 外人墓地と港の見える丘公園のあいだの坂を「谷戸坂」といっている。峰筋をのぼりつめた先は「ワシン坂【写真1】」。「ワシン」の意味には諸説あり、さほど有力ではないが「ワシンさんという人がいた」との説もある。鎌倉の霊山崎の上にも「ワシンさんの屋敷があった」とする説があり、その正体の解明がまたれる。かつて和親条約によって居住をゆるされた異人屋敷を「和親さん」といったのかもしれない。山手をきりひらいたのは外国人だった。



外人墓地
 山手は峰筋、谷筋がいりくんだ土地で、テニス発祥地(旧山手公園)とか旧根岸競馬場なども、ブラフ(崖地)とよばれたせまい台地にむりやり押し込まれた印象だ。もちろん200年前にはなんのランドマークもない「樵道」ばかりだったから、土地鑑のない浜臣は案内者をやとうひつようがあった。

 開国後の発展を浜臣は知らない。満目梅の花だった杉田の里も、いまはにぎやかな商店街「ぷらむろーど」を中心とした、平凡な住宅地。現在、ふきんの梅園といえばずっと北のほうの岡村梅園が知られるくらい。梅干産業はとうにすたれ、ペリーが「ミシシッピ湾」とよんだ遠浅の海も、コンビナートによってさえぎられてしまった。コンビニあたりに、かつて煎海鼠(いりこ)の産地だったなんて碑が、埃だらけで立っている。

 約束をすっぽかした友人はじつは数日前に梅見にきていて、茶屋に一筆のこしており、浜臣は苦笑する。吉田新田では癲癇をやむ宿の娘を心配したり、かえりの程ヶ谷では町の大火事を願うかわりものの老人や、「ごまの灰」とみられる行きずりの女を気にかけたりと、のんびりした旅が続く。



洲干の弁天(厳島神社)
 ここまで来ながら浜臣は、宝生寺も東漸寺もみていない。金沢八景も「何度も見た」として足をむけなかった。中世は専門外だったようだ。

 キリスト教の伝来を契機に、上方では啓蒙思想がすすんだ。富永仲基や山片蟠桃は合理主義の立場から神仏を否定。ただ文献批判にもとづく安易な合理主義では、文字にのこらない先史時代や古来の風習のすべてをきりすててしまう。そんな危機感から本居宣長ら国学者はフィールド‐ワークを開始、実証考古学や民俗学に道をひらいた。江戸でも小山田与清が「相馬日記」で平将門の旧跡をさぐったり、浜臣も鶴見あたりにつたわった「塞の神」の風習には、ふかく興味をむけている。

 しかし、鎌倉については、冷淡な学者がおおかったようだ。なぞにみちた古代にくらべ、中世の歴史は自明とかんがえられていたこと。はやくにガイドブック的な地誌も充実し、江戸近郊のありふれた行楽地として俗化していたこと・・・などが理由として挙げられよう。中世考古学は現在にいたるまで、比較的興味をもたれずにきた、おくれた分野だった。


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