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もちださんの鎌倉リポート No.191(2016年2月25日)



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杉田日記・2



根岸
 学者には不人気の中世史だったが、江戸の大衆には絶大な人気があった。歌舞伎や浄瑠璃はもちろん、現在のマンガにあたる黄表紙や赤本などに、かっこうのネタを提供。「顔の大きさを苦にした頼朝は、家来全員にデカ顔の面を強要・・・」「グルメの頼朝にてんやわんやの家臣たち、野暮でまずしい曽我兄弟は献立づくりに失敗をかさね・・・」そんなおバカな絵草紙もでた。えばりくさる武士を茶化すのに、つごうがよかったのだろう。

 鎌倉の地誌としては上方の紀行作家・中川喜雲の「鎌倉物語」1659、水戸光圀監修「新編鎌倉志」1685、昌平坂学問所編纂「新編相模国風土記稿」1841などがしられる。これらの影響下に各種ガイドブックもつくられ、案内人も語ったらしく、多くの紀行文はこれらに沿って書かれてきた。



寺をこんなにしても、もう海はみえない(神奈川台町)
 「玉舟鎌倉記」1642?「金兼藁」1659?など、比較的古く成立した地誌には、覚園寺の開山塔を「頼朝夫婦の墓」「源十郎弥十郎の塔」としたり、「忍性は男色におぼれ自分も癩を病んだ」などの奇怪な異聞もいくつか、収録している。これらは当時、当該寺院が衰退し、忍性に悪意をもつ日蓮教徒など、庶民の与太話がまぎれこんでしまったものらしい。いっぽうで「人丸塚」を柿本人麻呂と勘違いしてやみくもに否定したり、景清窟を「白糸が獄」(唐糸の誤り)と訂正したりといった、著者のさかしらも散見される。ほんとうに大徳寺玉舟禅師のような知識人が書いたかどうかも、かなりうたがわしい。

 ただ、史跡ごとの口上も全体としては他書と似通っていることから、観光コースは近世以前にかなり定着していたようにおもわれる。口上は旅行客の反応によっても多少かわってくるだろうから、マイナーな伝承、地味で人気のない話などは淘汰されてゆくし、興味をそそる知名度の高い話題などは、どこまでが口承でどこまでが創作か、微妙なぶぶんもある。



「金川砂子」
 その他の紀行文としては林羅山「丙辰紀行」1616、太宰春台「湘中紀行」1717など儒学者のものもある。春台は井戸ヶ谷で北条政子の像を見た、雪ノ下で笛をひろうして里人にほめられた、などと道中に細かな観察もしているが、漢文だけに記述は簡素、「不足道(いうにたらず)」とかたづけているところも多い。「江島紀行」1797の著者・斎藤幸雄(長秋1737-1799)は江戸名所図会の草稿を書いた地誌学者だが、いずれも鎌倉部分にはさしたる内容はない。

 「手アカのついた観光地」だけに、独自の発見はむずかしかったのかもしれない。ただ鎌倉の遺跡のなかには近代以降に採取された地名などもあり、「まんだら堂」のようにずっと無視され続けてきたものもあった。

 「神奈川宿歴史の道」の、いたるところの碑板にかかげられている図絵は、煙管亭喜荘という地元のアマチュア画家がのこした「金川砂子」1824という絵本。戦前、石野瑛という地元の教育者が世にだした。やはり地元民の観察力はどんな旅人や名画家にもまさるようだ。鎌倉のばあい、名所絵や稚拙な案内図、村絵図のようなものがのこるにすぎず、研究者のみならず地元民の熱意も、少しばかり欠けていたらしい。


 名もなき個人の旅日記は「鎌倉市史」紀行編にまとめられており、こちらは権五郎力餅とか猿茶屋といった、町の風俗の記述があって興味深い。学者がばかにするような、町方の歴史もまた、貴重なのだ。ユニークなものでは、いぜんにちょっと触れた紀伊国屋文左衛門の旅行記とつたえるもの1709や、「李院妻」という女性の日記1855、梨木祐之という神官がのこした「祐之地震道記」1703も、そこにおさめられている。

 「鎌倉紀行幣袋」1819というのを書いた近江の二流俳諧師、木明舎白螭というひとは、鎌倉の大地主、関氏(後北条氏の縁者)につてがあったらしい。道楽のお供には亀五郎という若者をつれてきた。16歳の亀君もおりおりに句を詠み、広い畑をみて「頼朝の遺跡かも」とみぬいたり、けっこうな活躍をしている。

 記録にとって「文学性」は、さほどひつようではない。読む者の関心のありようで、意味はかわってくるからだ。太田南畝(1749-1823)の「調布日記」はかつての田園調布など、多摩川流域の貴重な史料だが、土地勘のないいなかの読者にとっては価値が知られず、「知らない場所の羅列だ」としてながく軽視されてきた。


 最近閉館となった近代美術館鎌倉館について、久生十蘭(1902-57)というひとが「あなたも私も」という小説に詳しく書いている1954。古陶磁展はそのころいくつか開催されていた。喫茶室のある、当時できたての最先端のスポットとして、作家のこころを強くくすぐったようだ。

 古都保存がさけばれる今日ですら、うしなわれゆくものは多い。壊すこと、忘れ去ることは都市がいきてゆくうえでの宿命のようなもの。記憶はしだいに積み重なって、私たちのみているのは薄くて脆い、バームクーヘンの皮のようなものの連続にすぎないのかもしれない。

 近世まで、どれだけの史跡が手付かずのままのこっていたのだろう。だが、それらを「発見」するひとは稀だった。歴史はけして消えないし古都は永遠に変わらない、そういっているそばから宅地化の波に巻かれてしまう。かつて金沢の八木四石にかぞえられたこんな石も、近代以降は知名度を喪失し、もはやかえりみるものさえ稀だ(関靖「かねさは物語」1938)。


 近世には、中華主義にもとづく朱子学運動もさかんになっていた。勤皇攘夷、大義名分、忠君愛国。蒲生君平というひとは、京都・等持院にある足利尊氏の墓を杖が折れるまで叩き壊した、とまるで壮挙のように吹聴した。このようなばかが、観光マナーのみならず、近代にいたる社会全般にわるい影響をのこしていった。

 明治の廃仏や神社整理令も、ある種の合理主義にはちがいないが、西洋的な合理主義ではなかった。「理」という訳語じたいに「理」を絶対視する朱子学の野蛮な迷妄が濃密にのこっていた。仏像は文明の敵、国賊の墓は徹底的にこわすべき。さもなくば売国奴、殺されても文句は言えない。まるで中韓の教育界をみるようだが、下司が興奮する未開な朱子学という点では、共通の風土があった。

 マスコミの指示に踊り狂い、忠だの孝だの造反有理だのと、まるでロボットのように時々の「流行」をわめきたてる。長寿寺の尊氏墓や腹切やぐらの高時の墓なども、しつこくこうした被害にあい、一時は丸太の矢来などをめぐらし保護したこともあったという(「鎌倉大観」1902)。



きり裂かれた岬・遺跡に立つビル
 高山樗牛は旧香風園(亀が谷坂)の裏にいた日蓮学者・田中智学に傾倒し、しばらく長谷にも住んでいたので、だんだんと削り取られ、ちいさくなってゆく和田塚(伝・無常堂塚)の惨状もよくしっていた。

○ 予試みにステツキもて是の墳墓の縁を突き崩せしに、人の骨と歯を五六片得たり。直突き崩すに随つて限り無く有り。又近傍の畠の縁にて・・・農夫の是れを拾ひ集めて路傍に放棄せるもの累々として道に横はれり。 (「鎌倉の話」1902)

 俗化や破壊をなげく文化人はいた。けれど発掘調査や保護、保全などの行動には、なかなか結びつかなかった。史跡の顕彰をおこなう鎌倉青年団などが組織されたいっぽう、「鎌倉市史」考古編を著した赤星直忠氏や、雑誌「鎌倉」を刊行した亀田輝時さんらが戦前に有志とおこなった「鎌倉史蹟めぐり会」の記録などからは、すでに造成と盗掘が目に余るまでになっていたさまがうかがえる。古都保存法の先蹤となった「御谷騒動」などがおこったのは1960年代、20世紀もようやく後半になってからだ。


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