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もちださんの鎌倉リポート No.192(2016年3月1日)



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天神と参道


 荏柄天神の祭神・菅原道真が円爾弁円(1202-80)の夢にあらわれ、その勧めにより宋にわたり無準師範に参禅した、その画軸を渡唐天神といっている。道真は平安なかごろの人物だから、もちろん魄霊になってからの話。古人のおばけが海を渡る、という説は善導大師が霊像になって鎌倉光明寺に来るなど、めずらしい話ではない。

 道真は宋風の道服をきて、天神のシンボル梅の枝を持っている。明で描かれたものもあり、おそらく日元・日明間の交易船のまもり神として、船中にまつられてきたものとみられる。禅僧がからんでいるのは、建長寺船・天竜寺船など、海禁政策下の交易には多く「仏法興隆」の大義、すなわち政教分離の名目がかかげられていたからだ。


 菅原氏は土師宿禰氏の出身、先祖は部民に埴輪なんかを焼かせていた豪族だったが、同族の大江氏が桓武天皇の母方として貴族入りしたことから、改姓してともに文人貴族としてみをたてるようになった。

 史実のうえでの道真(845-903)は、大乱の打ち続く晩唐時代に遣唐使の中断894を実現するなどした。そんな賢者であるからこそ、激しく侵略意欲をもやす元や明への航海をまもってくれると信じられたのだろう。

 倭寇のほとんどが現地海賊だった、というのは明などの現地記録にあきらかなことだが、むこうでは日本船を海賊にでっちあげ貨物を没収・略奪したい思わくもあった。日本船は一般に「八幡大菩薩」の幟をあげていたので、「八幡船=海賊」というよばれかたをしたが、日本で「南無八幡」はピンチのときの唱え言。八幡大菩薩は「元寇数百万も」の軍船をしずめ、日本には「ほんの数万騎しか」たどりつかせなかった、などという専守防衛の神様。どちらが弱者だったかはいうまでもない。


 それで渡唐天神とはなにものであったか。大陸で商業の神として、中華街の関帝廟にもまつられる関公(関羽)。三国時代の伝説的な英雄で失意の時代に商業で財を成し、悲劇的なさいごをとげて道真と同じく雷神となったという。このものが元明時代、日本向けの湊であった寧波を中心にまつられはじめ、「三国志演義」が創作されにわかに再生されてゆく。

 菅公と関公。渡唐天神とまつられたものは、似た名前を持つこのふたつの神が、綯い交ぜに習合したものだったのかもしれない。菅公はしらなくても、魏の曹操の圧制とたたかった不屈のパルチザン・関公のことは現地人もよくしっていた。とりわけ海禁を犯し、武装化して倭寇行為にまで手をそめる現地海商にとって、関公はすなわち自分自身の姿でもあった。韓国人が永遠の春香・沈清(*伝説の妓生)であるのと同様、未開人にとって、神話と現実はおなじものなのだ。

 むこうの神様をとりいれること、つまり中国海賊にわたりをつけることは、航海の安全にとってかかせなかったはず。後世、平戸や長崎に中国海商(海賊)本人をすまわせるようになるのも、当然のなりゆきだった。・・・


 日本において、火雷天神はふるくからの荒御魂・御霊のひとつで、北野天神(菅原道真)以前にも、桓武天皇に祟った京都上御霊・下御霊神社などがしられる。鎌倉にも各種御霊神社や、佐竹天王など多くのたたり神の伝えがある。

 北野天神はまず丹治比文子(綾子)という少女の夢想にあらわれ、ちいさな祠にまつられた(レポ99写真2)。これが内裏の北野、右近の馬場の地にうつり、道真の縁者・右大臣師輔によって本格的な社殿にまつりあげられた。兄の左大臣小野宮実頼が道真公の仇敵・故時平大臣の婿であるので、将門の乱などをひきおこした怨霊の呪いを引きずっている、・・・そんな噂を政治利用する目論見もあったようだ。狙いどおり師輔のしそんは、やがて摂関政治の栄華を切り開く。

 将門の乱のさい、北野天神は八幡宮の使いとして将門に「新王」の位を託宣した。朱雀・村上天皇はたしかに、出生の疑惑があったのだ。荏柄天神がもともとどういう天神かは不明ながら、頼朝にしても権力を授けてくれる北野天神の荒御魂として、鶴岡八幡宮とともにまつろうとするいしきがあったとかんがえられる。


 頼朝ら、清和源氏には陽成院の子孫という別の伝えがあったり、平清盛は白川法皇落胤のうわさがあった。廃天子・陽成天皇母子には業平密通の物語さえ創作された。業平も皇胤にはちがいなく、清和源氏出身の宇多天皇は即位の「前例」さえのこしている。・・・

 石段のうえの境内はさほどひろくなく、神門、影向の大銀杏、拝殿、学問成就の札売り場、神輿舎、かっぱ筆塚などがならんでいる。荏柄天神本殿には焼失のきろくがなく、現在のものは鎌倉後期の八幡若宮1316の古材が転用されているという。江戸期にも八幡造替時のたび部材や余材が当社修造にあてられたらしく、八幡宮のほうは戦火にかかってきたわけだから、古材はかなり古い時代にこちらに来たらしい。

 もちろん内部の見学はできないし、拝殿のうしろにのぞく真紅の外観はきれいに修繕されており、古社というおもかげはない。石の間という連結棟で拝殿につながっており、権現造りとよばれる。神体の道真像には五臓六腑や本地十一面観音がおさめてある、とつたえる。


 石段下にはかつて別当一乗院や尼五山の護法寺、和田胤長邸跡などの伝承地、またここにも飢渇畠のような塚があったとか。

 下の鳥居のまえには結び松のようなものがあり、さらに金沢街道に面した外鳥居にむかって外参道(馬場)がのびる。八幡宮の段葛と同様、鎌倉のまちづくりの基軸線のひとつとなっていた。「金兼藁」がつたえる伝説では、頼朝は「弘法の護摩壇」にのぼって狼煙をみ、まちづくりをおこなったとされる。

 「護摩壇」とは覚園寺の裏山、ハイキング‐コースにある「法王窟」の上のことらしい。現在は眺望がひらけていないが、かつては十王岩のようなみはらし台の役目があったのかもしれない。距離の離れた奈良・大阪の三大古墳群がかなりの精度で東西線にならんでいるなど、測量技術は古代から発達していたが、星や烽火を基準とする方法はもっとも単純で効果的だった。伝説ではこのとき、大仏建立の地を点定したことになっている。


 参道は神様のもので下馬が義務付けられ、かってによこぎれば神罰がくだる。馬場には埒というものがもうけられ、両側に段葛のような土手(土塁)を築かれた。後北条のころには外鳥居あたりに「関取り場」をもうけて神社修復費用のための小銭を徴収した。

 京都北野天神の建った場所も、もともと「右近の馬場」があったところとされ、当初はおそらく現在の裏門から五辻通りにむかって東西にのびていたようだ。馬場はのちに同社の参道にそって南北につくりあらためられたという。秀吉の時代には紙屋川ぞいに壮大な御土居がきずかれたが、中世まではひくい土手でもなんらかの防衛線にはなっていたはず。

 平安末期までは、修理坊城使・修理宮城使などがおかれていたので、京都の旧朱雀大路や大内裏周辺ではまだ高築地がのこっていたとみられる。頼朝はその記憶を参考に、段葛や荏柄天神の参道をつくったのかもしれない。大蔵幕府跡周辺の地業は近代のもので、わずかに東御門川ふきんが段葛や荏柄天神の参道とやや平行をなしているにすぎない。天神の参道はすでに馬場のおもかげも松並木もないが、地図上の方位だけでも中世鎌倉をものがたる希少な遺跡なのだ。


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