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もちださんの鎌倉リポート No.193(2016年3月6日)



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諏訪長崎・1


 市役所の横、トンネルてまえの小さな祠は諏訪神社といって、もとは市役所駐車場あたりにあった諏訪池のほとりのちいさな祠だったのが、小町が鉄道で東西に分断されたのを機に、今小路の鎮守に格上げされ、現在地にうつされたという。まいとし地域のお祭りもある。

 もとの池ふきんは蔵屋敷といい、また諏訪氏の屋敷跡といっていたことから、そこは鎌倉後期の内管領・諏訪氏ゆかりの場所ではないかと推測された。水戸光圀の鎌倉日記には「諏訪屋敷 千葉屋敷の東の田中にある畠なり」とみえ、裏駅よりの場所を「諏訪東遺跡」といっている。



今小路西遺跡ふきん
 御家人とはべつに、執権北条氏(得宗家)の私的な家人を御内人といった。内管領はその筆頭で、幕府という巨大企業の大番頭に直属して実務を支配した、いわば手代頭。諏訪氏はのちに得宗北条高時の遺児・中先代を信濃に逃がし、のちの反攻にむすびつけた地方豪族としてもしられている。

 田圃より高くなっていた畠地は、耕作でけずられ遺跡の残存状況がよくないらしい。隣接する市役所から御成小学校にかけてを今小路西遺跡といい、ここからは中世のおおきな武家屋敷ふたつと町屋などが検出された。また北方のブリリアとかいう中古マンションのしたからも武家屋敷がでた。

 遺跡の下層は鎌倉郡衙と推定され、租税を収納する「正倉」がたちならんだ。倉庫群は平安時代にもつづけてたてられた。郡の解体時期はあきらかでないが、「蔵屋敷」という小字が近代までつづいたところをみると、すくなくとも中世にも、物流の拠点というような地縁的な要素が残っていたものと推測される。また、ふきんには裁許橋、問注所の伝承地もある。得宗家の番頭である内管領がこういう場所をおさえていたのは興味深い。


 これは大三輪龍彦編「鎌倉の発掘」(有隣堂1983刊 p.81)にのっている江戸天保年間の古絵図をもとに加筆した見取り図。まんなかの「切り通し」が現在のトンネルふきん。伝承によるこまかな地名がうかがえる。

 さて、諏訪氏よりもさらに強大な勢力を築いたのが平姓長崎氏一門。平禅門の乱で平頼綱(1241ころー1293)が討たれたのは経師ヶ谷の邸とされる。弁が谷の北、遺跡で言えば「長勝寺遺跡」あたりに相当し、このあたりも物流の地であったといわれる。東に名越切り通し、南は材木座で、北条氏の邸「名越高御蔵」「浜御所」というものもあったとされる。

 平安時代には「成功(じょうごう)」などといって、権門の家司が受領(国司)を拝任、もうけたカネで豪華な邸宅や寺院などを建造、主君にたてまつることがあった。管財人としてみずから住むこともあったから、北条得宗家の御内人にも、おなじようなことがあったのだろう。「とはず語り」には、若宮大路の質素な将軍館に付属する執権貞時小町邸の中に、頼綱が豪華な宿所をしつらえていたらしい記述もある。



長勝寺
 得宗貞時・高時らは「有若亡」と評されることもおおく、実務に通じた内管領にはなかなか意見できなかったようだ。

 義堂和尚は応安八年1375、湯治のため熱海に滞在した。「日工集」巻2、二月二十六日の項につぎの話がある。「飯罷りて諸子と与(とも)に出遊す。或る村の巷に僧舎或(*在?)り。舎に道人有り、一地を指して曰く、昔、平左衛門、虚を作すこと勝(あげ)て計う可らず。此の地に拠り館を作し、珠屋に臨むに地中に陥ち入る。人皆云く、活きて地獄に陥つ、と。故に今に至り、呼ぶに平左衛門地獄と為す。松一株有り、蓋し其の墓を表す也。」

 いまでは別の民話にかわっているが、熱海七湯のひとつに平左衛門の湯があり、名を呼べばすなわち湧き出すと伝わっている。かつての弾圧をにくむ日蓮門徒は、この平左衛門こそ、数々の悪行の果ての「平左衛門頼綱」の末期にちがいないと、そう解釈している。また「諏訪大明神絵詞」にみえるべつの説話でも、平左衛門入道杲円(頼綱)の横暴なふるまいが一家滅亡の神罰をうけた旨がかたられる。


 頼綱が忌み嫌われた背景には、元寇による御家人層の疲弊などもあったのだろう。「高麗史」などをみてもあきらかなように、敵は謝罪や賠償どころか劣等感に悶え、元や明に日本への再侵略をたえまなく要望しつづけていた。

 恩賞にあたえる土地には、かぎりがある。得宗家の内管領としては、悪党をはじめ、どんなに虞犯性のたかい相手であろうとも、重商政策をつづけることのほうが現実的だった。ただ、恩賞に代わり得るような成長戦略など、あっただろうか。旧態依然の御家人層は不満をつのらせ、ついに安達泰盛らと死闘を演じる。あえて望まぬ苦肉の策とはいいながら、文永の徳政令1267、永仁の徳政令1297では御家人にのみ、特権的に売地を返却させるなど、きわめて反則的な、その場しのぎの経済対策もとられた。

 高利貸しは踏み倒しをふせぐため、元金は神仏の「祀堂銭」であるなどと、巧妙なわなを張った。踏み倒しは社会の公正を破るだけではなく、神仏のカネを盗むことにもなるのだ。銭にはそんな魔力もあった。


 律令時代の関は軍事的な土城の形態をとったが、中世のそれは税関にちかかった。荷物は指定業者によって為替手形などで送られるか、木戸や港湾施設などで通過税(過所・運上)を徴収されるかした。どこかで必ずひっかかるよう、こういう場所が何百とあり、すべて「関所」とよばれた。

 かつての朝廷では沽価(こか=公定価格)をさだめ、取引にともなう和市(わし=相場の変動)を制限しようとした。金融経済が活発化した中世には、これが機能しなくなった。流通業者を徴税の道具とするかわりに、かれらは特権を利用して相場を左右するようになった。かきあつめた安い米を物価の高い都でさばくなどして、資本を自由に運用し、ふやすことができる。「百練抄」にはすでに平家政権の末期、「銭の病」なることばがはやり始めたという。

 米などは飢饉のほうが高くうれるので、豊作にもかかわらず売りしぶる。困窮者の無知と恥辱につけこんで、まずは言葉たくみに借金漬けにする。紙の上の数字はけして腐ることなく、確実にふえつづける。利潤の追求は、詐欺的な買い占めや貸しはがしなどの横暴をうながし、御家人らの土地をねこそぎ奪うことも辞さなくなっていた。



大町橋付近
 現代社会においてはむしろ、借金苦のあまりに自殺、なんてはなしは一部の破滅型人生の典型などとして等閑視されがちだ。しかし法の未整備はもちろん、貨幣経済になんの免疫もないむかしの人々には、その功罪、リスクなどについての理解も免疫も、ほとんど無にひとしかったようだ。

 商人、とくに高利貸のたぐいは平安のむかしから呪詛と軽蔑をあつめてきた。ルール無用、残忍無慈悲な人非人・・・その被害のあらましは江戸時代末の「世事見聞録」などにもあきらか。商法もなければセーフティ‐ネットなどあろうはずもなく、裁判をあつかう説話なども、狡猾な口入人にまかせて判決がながびいたあげく、おおくは所領をだましとられる、という惨劇が大勢となる。裁判になれていない田舎武士などは、法廷でのちょっとした失言がもとで全財産をうしなうこともあった。

 ちなみに問注所はもともと頼朝以来の大蔵御所におかれた雑訴裁判所であるが、怒号喧噪が絶えなかったため、この場所にうつしたという。執事の三善氏は算道のいえがら。とうぜんカネがらみの訴訟がおおかったにちがいない。のち御家人の所領問題だけを特別にとりあつかうため、引付衆というものもさだめられた。こうした倫理崩壊がさまざまな立場の武士や朝廷、商人らにさらなる先鋭化した要求を呼び起こしたのは想像にかたくない。未熟な経済政策のツケが、あちこちにたらい回しされ、国民の分裂を促していったのだ。


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