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もちださんの鎌倉リポート No.194(2016年3月7日)



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諏訪長崎・2



大蔵
 史論「保暦間記」は鎌倉幕府滅亡の事情をつぎのようにつたえる。安達泰盛と平頼綱がともに滅んだあと、執権貞時が出家して亡くなり、十四歳の高時が正式に執権につく1317ころまでは、頼綱の支族・長崎円喜高綱と安達顕盛らがしっかり補佐して「形の如く、子細なくて年月を送」ったという。

 とはいえ少年高時は「頗る亡気(ほうけ)の体(てい)」で、翌年即位した後醍醐天皇が政治改革に意欲的だったため、「哀れ公家の御世にや帰らんずらん、など諸人」が噂しはじめたのだという。



今小路西遺跡
 安達と長崎氏、犬猿の両者がなんとか共存してやってきたのは、貞時の遺子、高時泰家兄弟が安達氏の妹を母としたからだ。円喜の息子・高資にはそれが面白くない。そのころ奥州蝦夷代官・安藤一族に内戦がおきた1322。高資は「数々の賄賂を両方より取りて、両方に下知をなす」ありさまで、平定よりもじぶんや幕府の収入を重視。これによって「武威は軽く成り、世も乱れそめて、人も背き始めし基(もとい)」となった。該書はそう断じている。

 津軽地方は北条氏の資金源で代々開発にいそしんだところで、ほんらい御内人が内輪で解決すべき問題だった。そこに御家人筋の工藤・宇都宮・小田氏などを征討軍として投入、しかもうつろな和談でごまかされ、紀清両党など多くの犠牲者をだして空しく帰るばかりだったらしい。安藤一族が交易していた蝦夷地は当時、元(モンゴル)による樺太侵攻の危機もあったから、断固平定を主張するむきもあったはずだ。長崎高資のこんなサボタージュにたいしても執権高時はなんら対処できない。朝廷による倒幕未遂事件、正中の変はそんな折におきた1324。 



平潟湾と野島
 得宗北条高時はやがて出家1326、内管領長崎高資は金沢北条貞顕を執権にたてる。長崎氏の息がかかった高時の長子を、ゆくゆくは執権とする布石だったらしい。だが高時の弟・泰家をないがしろにしたとして母方の安達氏(円成尼)らがつよく反発。泰家はもとより「十六七の若者どもまで皆出家入道す」という集団ストライキがおきる。これには金沢貞顕も即時辞任においこまれ、出家せざるをえなくなった。かわりの執権には御家人・足利氏の縁者たる赤橋守時がついた。

 「高資、驕りの余りに高時が命に従はず、亡気ながらも奇怪に」思った高時は、高資暗殺を試みるが失敗1330。このとき長崎高資の首をとっていれば、武士たちの心はさほど離れはしなかったかもしれない。高資からすれば、身ひとつの破滅を避けるために、今後は得宗高時以下すべての人を道連れにせざるをえなくなってしまった。幕府との無理心中、・・・このへんはいつまでも南朝にこだわって無数の民をまきぞえに生きぬいた、後醍醐天皇をほうふつとする。

 やがて時代は元弘の大乱へと、つきすすむ。幕府を離反した武士たちとしても、後醍醐の革命方針を真剣に理解していたわけではないのだろう。現状を破壊しさえすれば、なにかが変わる。行き詰ったひとびとほど、一発逆転のために藁のようなものにもすがるものだ。そんな子供じみた、うつろな動機で未開社会はうごいてきた。



葛西ヶ谷遠望
 無住法師は「雑談集」のなかで、わかいころの自分の愚かさをこうのべている。「纔かなる什物其の数を知らず、我が物人の物を見分けず。正体無き事、物に歴(ふ)れ此の如し」。坊ちゃん育ちが世事にうといことは、いうまでもなかろう。

 高時の父・貞時(1272-1311)は晩年、諸方でぜいたくな接待を受け、連日の酒宴と高額な仏事に溺れた。座席に候らわねば気色を違がえしむ、と「平政連諌草」1308という文献にみえている。差出人の筑前権守政連という人は中原氏かともいわれるが未詳。当時の引付奉行人「筑前権守」1310と同一人とみられ、勝長寿院の再建にこだわっている点などから、中原摂津師連(1220-1283)の縁者かもしれない。師連の息子・出雲介親連は摂津池田氏の養子となり、また金沢ともなのっている。

 宛名の「長崎左衛門殿」というのは平宗綱が通説だが、時代観からみておそらく円喜。「(政治を)行うべからざる人の強いて行う、また之を不可と謂う」など、佞臣政治への批判を貞時本人にではなく内管領にあてているのがいかにも皮肉だ。貞時じしんは、「一生あじけなく徒らに政事にまとわれんより、余算(*寿命)も限りあり、歓宴を催さんに如かじ」「(じぶんは)世の為に出でず、民の為に生まれざる」などと口走っていたらしい。有能な家臣を多数登用しつつ、自分の無力・無能さを深くさとってしまったのだろうか。無住法師は仏教への傾倒についてこそ誉めてはいるが、へんに自信をもった後醍醐や長崎氏とは、あまりにも対照的だ。



筋替橋・宝戒寺前
 後醍醐天皇は、長崎高資とどんなちがいがあったのか。独裁性向はおなじだし、遊興や金銭をおもんじ、血筋によらず商工者や悪党をとりこんで、たくみに利用したのもおなじだ。下剋上、田楽ざんまい、などという激烈な非難(落書)はむしろ、建武の新政によせられたもの。天皇が長崎高資ににていた、というよりは、かれらが時代の子だったというまでで、武士のみならず貴族にも、足利政権や北朝へと合流する者が多発した。人々はたぶん、「金銭優位」「実力次第・寵愛次第」といったあらたな時代性に反発していたのだろう。

 資本主義革命、なんていうと大げさだけれど、中世の「職人歌合絵巻」には、紫式部ら王朝びとがあれほど嫌った下賎のものの絵姿が、このんでえがかれる。鋳物師・細工師から猿楽、巫師ら芸能民にいたるまで、非人といわれたかつての官奴、役所にもつとめず散所に職掌を全うした最下級のひとびとへの関心が、異常なまでにたかまった。

 かれらはもはや官奴ではなく、社会のすみずみにまでゆきわたった消費経済をささえる、商品の生産にかかせない位置を占めてきた。ひとびとは先祖崇拝にもとづく古代的な権威や中央集権的な社会秩序などよりも、めのまえの財宝、金銭のほうをおもんじるようになった。銭の徳には出自や都鄙の差別などなかった。「天皇なんか木かなんかでつくって、どこへでも置いておけばいい」というラジカルな説もでた。無から富をうみだす職人たちの絵姿に、新時代の才知・才覚というものを学ぼうとしたのかもしれない。


 そもそも南北朝をふたつに分けた「両統迭立」の原因について、「(異本)伯耆巻」という、南朝がわの所伝をまとめた書物はこう分析している。「執権相模守時宗、慮りありて世を疑ふ心深く、皇統を両統に分かち奉り、替り/\御即位あるやうに定め計らひ申・・・若し禁中より関東へ御謀叛あらば、一方を仰ぎ奉るべきとの奥意なりとぞ聞えし」。

 すなわち大覚寺統の正当性にまちがいないが、承久の乱以降、主上御謀叛への懸念が幕府にたえず存在したのだ、という理解がある。また最初の倒幕未遂・正中の変1324の真相は、後宇多院の遺命により中継ぎの後醍醐を廃して甥の東宮にゆずらせようとした、大覚寺統の内部工作にゆらいするとも。あくまで皇室内部の暗闘だったのに、ことのなりゆきは幕府側が勝手に疑念をいだき騒いだから、というみたてだ。ただ、みたてどおり遺命にしたがい、大覚寺統内で皇太子邦良親王への譲位がおこなわれたとしても、後醍醐の反発をとめることにはならなかっただろう。


 蝦夷の反乱ともいわれた、奥州安藤氏の内乱のゆくえについて、「鶴岡社務記録」には「五月十九日、蝦夷降伏の為、太守の御亭に於て開白し五壇の護摩を修せらる」1324、「蝦夷降伏の御祈りの為、後正月の十二日より社頭に於て精誠致すべきの由、殿中より仰せらる」1325。「二巻本北条九代記」には翌年一方が捕らえられ、和談もなったとされるが1328、その後の消息はふめいだ。誤った風説やデマが乱れ飛んだためなのか、戦争責任をおそれてか、鎌倉幕府末期の記録はどれもたいてい、抹消されてしまっている。

 「諏訪大明神絵詞」には、同社の神変により安藤氏が突如、城を破却しはじめたことになっている。ただしこの「絵詞」の作者・諏訪円忠(1295-1364)は、旧幕府にも新幕府にも仕えた者なので、中先代の乱で壊滅した諏訪一族のお家再興にとって、つごうよく書いている面もおおいのかもしれない。

 それにしても、旧幕臣が多数、建武政権や足利政権に登用されているのはどんないみがあるのだろう。革命など、ほんとうはなにもおきてはいなかったのか。


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