トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第195号 


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もちださんの鎌倉リポート No.195(2016年3月9日)



No.194
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諏訪長崎・3



重衡塚
 長崎氏の先祖は平家の子孫と伝える。有力なのは平姓の関氏で、都平家の末端の被官として、もともと北条氏なんかとともに、伊豆ふきんにいた、という説。やがて北条氏の子分として伊豆の国市にあった長崎郷をもらい、名字としたという。ちなみにこの関一族は戦国後北条氏ともかかわりがふかく、近代まで鎌倉の大地主でもあった。

 もうひとつの説は清盛の孫にあたる平資盛の末裔、というもので、系図には長崎平氏の祖・平盛綱は資盛の子、ないし曾孫(盛国、国房をはさむ)とする。こういうのを仮冒(*由緒偽造)といって、猶子関係をふくめて真偽はうたがわしいのだけれども、実際の出自はともかく、長崎氏がみずからこれを積極的に【主張】していたかどうかが問題となってきた。



敦盛墓と敦盛塚
 平資盛は重盛の次男で嫡子維盛の弟。一説に真の嫡子は資盛だともいう。「建礼門院右京太夫集」にみえる、悲劇の貴公子としてもしられている。資盛に落とし子がいたとすれば、すなわち平家さいごの生き残り、六代御前にはほかにも有力な従兄弟がいたことになる。

 資盛本人は、異母兄弟の維盛や清経のごとく自殺もせず、壇ノ浦まで源氏方に抵抗をつづけた。このような者の子孫の名乗りが、関東幕府でどのようないみを持っただろうか。たとえばかの織田信長も、官位があがるにつれ、先祖は資盛の子・親真だと【主張】しはじめる。ただ信長のように、宮中で摂政清華の官位をめざすものであればこそ、血筋の仮冒も必要。葵祭に参加したくらいで過差とされ、大夫の判官ていどを名誉とした長崎氏にとっては、なんら意味がない。

 平家の武将の墓は西国各地につたわっているが、神戸には弘安九年にたてられた清盛塚という供養塔(レポ33)もある。たしかに平家筋の人物には幕府に投降したひともいたし、かれらをいつまでも供養し、慕うひとびともいたことを示す。平家落胤のなのりは、むしろ反幕勢力をてなづけるための、方便だったのだろうか。長崎氏の祖先盛綱は、執権泰時の段階で、尾藤景氏・安東光成・諏訪盛重とならぶ御内人となっており、すでに泰時邸に付属する形で宿所をもっていた。


 平家の本拠地のひとつ、六波羅池殿は承久の乱後、六波羅探題となった。これを北方とし、南方はかつての法住寺殿まで拡張されたとも言われる。そのなごりを今につたえるのが六波羅蜜寺と、「六原」の地名。世界遺産・京都にも源平以前のたてものはなく、市中で最古の建物は五辻千本にある大報恩寺本堂1227。千年の都なんていっても、これはこれで十分に希少なのだ。

 大報恩寺を創建した義空は奥州藤原秀衡の子孫といわれる。付近には金売り吉次の首途天満宮など、なぜか奥州関係の伝説がおおい。奥州関係の武人といえば、安倍宗任法師が注目される。いわゆる平泉文化の基盤をつくった奥州安倍氏のいきのこりだが、投降後西国に配流され、商才を生かして大宰府で活躍。「今昔物語」にみえるシベリア探検のものがたりも、宗任法師が語ったものとされる(レポ46)。子孫は松浦党などに勢力を扶植して平家の有力な家人となり、なんとかいう総理大臣の先祖ともいわれる。

 奥州にのこった一族は安藤(安東)となのり、鎌倉幕府の御内人につらなり、蝦夷管領(代官職)にもなっていった。秀郷流藤原氏など、同姓他氏をなのるものもいたことから、多彩な婚姻関係を展開していたらしく、安東「平」右衛門入道などの名乗りは、長崎「平」氏との密接なつながりが奈辺にゆらいしたかを推測させる。日蓮は自伝で、赦免ののち平頼綱との対面のさい、「では真言法師を信仰した後鳥羽法王はどうして負けたのか、安藤五郎はどうして蝦夷に首をとられたのか」云々と問い詰めたとしているが、念仏信者頼綱にたいし、ここで安藤氏が話題にあがるところからも、近縁としてのふかい結びつきが読み取れるかもしれない。



六条川原
 安東の一族には、室町期に奥州十三湊日之本将軍となのり、福井の名刹・羽賀寺の伽藍を再興した者もいた。その莫大な費用はもちろん、日本海の流通経済を一手に支配していたことに由来するのだろう。県立博物館にある北条氏得宗家(相模守殿)過所船旗1272はレプリカ(現物は京大所蔵)だが、掛け軸ていどの麻布に三つ鱗の紋のついた関所免除手形のような船旗。いわゆるフリー・パスだ。

相模守殿御願若狭国守護分 / 多烏浦船「徳勝」也
右国々津泊関々不可有其 / 煩之状如件
文永九年二月日

 多烏(田烏)浦とはさきの羽賀寺ちかくの湊で、刀禰(村役人、庄屋)秦家という者に古文書とともに伝来したという。このような者に経済的特権をあたえることが平家や得宗家の資金源になっていただろうし、こうした実務にかかわったのが御内人、すなわち手代・番頭クラスの私的奉公人であったことも、想像に難くない。安東蓮聖(1239-1329)は摂津守護代など、おもに西国で得宗家の目代として活動するかたわら、高利貸などをいとなみ、播磨福泊湊の修築や和泉久米田寺の再興などに莫大な私財を投じる有徳人(富豪・篤志家)としても、名をはせた。


 さて、京の都にあった清盛のもう一つの邸宅、西八条殿は、もともと源氏の先祖・六孫王源経基の邸宅があった地とされ、やがて池殿頼盛の邸などを経て、源実朝の後室坊門信子が遍照心院という尼寺とした1222。これが転々として寺町(富小路五条)にうつったのが本覚寺で、のちに再興された六孫王神社とともにもとの地をまもった大通院も、明治になって東寺の南に移転、ちいさな寺ながら伝・阿仏尼の墓や、有名な伝・源実朝像などをつたえている。

 西八条殿のとなりは後白河院の皇女で、名義人として莫大な皇室財産(荘園)を相続、以仁王の挙兵などにもかかわった八条女院のやしきがあった。幕府の成立により荘園では地頭請などの多重支配による過酷な取立てがおこなわれ、農本主義をゆるがしつつあった。土地の生産性には限度があり、米はやがて劣化してしまうが、紙の上の貸借銭はどこまでもふえてゆく性質がある。市場経済によって階層化がすすみ、御家人がただでさえ乏しい所領の得分を、借金のかたにてばなすことも多くなった。

 荘園制とその腐敗・解体については石母田正「中世的世界の形成」という論文がよくしられている。もちろん階級闘争史観がすべてを解決するわけではない。中央集権的な古代領主がほろんでも、あらたな権威とその指嗾とがすぐにうみだされてくるのだ。庶民は年貢の不払いから、執達吏(とりたて人)の下司(=げす)やその手先(黄衣の非人)に家を焼かれ、無法な体罰をうけ、土地をねこそぎ奪われる。これを進歩などとよぶことはできない。



白河法皇陵・竹田(鳥羽離宮跡)
 院政のふるさと・鳥羽離宮跡は京都南ICふきんにあり、いまでは遺跡もわずかだが、城南宮の境内などにいくつか築山の跡がある。白河院の陵墓は墳墓堂としての三重塔の跡。鳥羽院、近衛天皇の安楽寿院陵にはいまも建物がある。

 鎌倉に流鏑馬を伝えた諏訪盛澄(下宮・金刺手塚)は、かつて平家に属して長年在京し、ここ城南寺で流鏑馬を披露した。のち木曽義仲を婿にとり、頼朝暗殺伝説の主人公・唐糸の縁者でもあった。降人となった諏訪盛澄はまず頼朝の御前での流鏑馬において、的をささえる細い串を、命じられるままに射切って見せた(諏訪大明神絵詞)。かれらの赦免をもとめたのは梶原景時だったと伝えているが、諏訪盛重(上宮)など、一族はいつしか北条得宗家の主要な被官となっていった。

 不思議なことにこの者も、かつては関東の「敵」だった。もはや先祖を問う時代ではなくなった、ということなのか。諏訪一族の本業は長野・諏訪大社の神官。全国に展開する分社をてこに、人的ネットワークをひろげていたのかもしれない。幕府滅亡時、北条泰家らとともに逃亡した高時の遺児・時家をかくまい、中先代の乱1335を主導したのは周知の通り。盛重の子という諏訪頼重らは勝長寿院で顔の皮をはぎ、壮絶な自殺をとげている。


 ガリバー旅行記でしられる英国詩人・スウィフトが詩に歎いたザ・バブル(南海泡沫事件1720)は、無限連鎖式の金融トリックがまねいた大恐慌。いわゆる「バブル経済」の語源だ。とるにたりない一会社の不法経営が、国全体をおどらせた。英雄史観ではけしてでてこない、こんな「ちいさな」事件が、現代につうじる資本主義社会の実相をもっともよく映していたりする。社会をうごかしているのは、人間ではないのかもしれない。

 これまで中央周辺でしか語られてこなかった歴史が中世にいたって国土のすみずみにまでつながり、あっというまに平均化したのは、すなわち銭という権威が顔をもたないため。日本における徳政一揆などの深層には、鎌倉幕府や建武政権、および室町幕府を崩壊にいたらしめた、経済的理由がひそんでいる。それはたぶん、だれのせいでもなく、統御しきれないまでにふくらんだ、通貨の魔力そのものだったのだろう。


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