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もちださんの鎌倉リポート No.196(2016年4月10日)



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花筏


 「花散らし」の春のあらしは、花見のチャンスを逸した人にとって、かなり無念なものらしい。和歌にも数多くよまれてきた。

 今年は予報がはずれてだいぶ花がおくれたため、京急沿線の方にはおなじみの大岡川花見クルーズなんかは、5分おきに出る宴会船がほぼ0分咲きの状態で、かもめとともにのぼりくだりしていた。満開予報にいちはやく予約を入れた幹事さんなんかは、さぞかししょぼんとしてたにちがいない。


 繊細なつぼみとか葉桜なんかを愛でるのは、遠目ではむりだ。花の雲のような満開時にくらべると、どこかにごってしまう。遠目がとくにうつくしいソメイヨシノなんかは、花の足が速く、なるたけ休みを短くしたい東京のようなビジネス都市のためにうまれた品種なのかもしれない。

 庶民の花見は江戸幕府が飛鳥山(王子)や玉川上水に桜を植えて、爆発的にひろがったらしい。歓楽地吉原では羽振りのいいお大尽さまが、まいど花どきにあわせて養生した若木をもちこんだという。最近改修された鎌倉の段葛でも、急遽若木を搬入したらしいのだが、植えたばかりでは貧相に刈り込まれたまま枝ぶりに勢いがなく、いちはやく散ってしまった。老い木のどす黒くごつごつとした醜い幹から花芽が萌えだすあの妖気のようなものが感じられるのは、だいぶ先の話。


 いちょうの美しさは人けのない道を厚く埋め尽くす落葉のじゅうたんにもあるのだが、繊細な桜の花びらは風に舞い、それほど長くとどまってはくれない。人に踏まれれば灰色の染みのようになって、やがてきえてしまう。

 桜はけっこう簡単に押し花になるので、趣味のない人でもなんかの本のあいだに二三輪はさんでおけば、数年のうちは白いままだ。蘭とか桔梗なんかにくらべれば、技術も道具もいらないし、比較的本をよごすこともない。それでもやがては、球根の甘皮のような色に褪せていって、記憶とともにすてられる。


 金沢八景の泥牛庵の前身は、南山士雲(1254-1335)の創建という。南山といえば得宗北条高時の帰依をうけ、材木座弁が谷に崇寿寺(廃寺)をひらいた僧。鎌倉さいごの日、長崎高資の子・次郎高重が暇乞いにおとずれ、南山は「吹毛急用不如前(よい剣をもってさっさと行くほか、なにがある)」の句を贈って励ました。奮戦のあいだ高重の鎧には二十三本もの矢が立ち、やがて主君高時のもとにたちかえり、まっさきに腹を切った、と太平記にみえる。

 そのとき南山が鎌倉にいた、というのは史実ではないらしいが、旧金沢道(六浦道)を扼するこの枢要地に、得宗系の寺があったことになる。泥牛庵はなんどか再興され、旧地は定かでないが、景徳伝灯録をひく有名なことわざ「泥牛、海に入る」という寺号からして、かつては六浦道をはさんで金龍院あたりにまでのびていた引越の岬のどこかに、いちしていたらしい。

 海に流した泥人形とおなじく、うしなった歴史は二度とは帰ってこない。


 後背地は上行寺やぐら群の裏手に当たる引越の谷戸。いまでは線路に切り裂かれ、ガード下のトンネルをくぐってゆくが、のち室町期に能仁寺(1382?・廃寺)、近世には武州金沢藩の六浦陣屋などが造成された。先行して六浦浄願寺(頼朝創・廃寺)がそこにあったともいわれ、泥牛庵の前身はそこの子院、もしくは上行寺東遺跡そのものだったかもしれない。

 宅地の奥にのこる旧藩主(米倉子爵)家の屋敷墓には、南朝最後の廃太子のなれのはて、梅隠祐常の名(?)をきざむ応永十二年銘の印塔1405がある。どぶのある路地をはいって民家の生垣をそれ、崖のコンクリ擁壁にむかう小径の奥(写真)。子爵らの墓よりはだいぶ小さいが、応永あたりの宝篋印塔としては妥当なものだ。


 台座東面の格狭間に「梅隠●常大師」「応永十二(乙酉)逝去六月十八」。三文字目は、風化でもう読めなくなっている。とはいえ子爵家でも貴重なものとみとめたからこそ、これを自家の瑩域に大切に保存してきたのだろう。梅隠はもともと南朝後村上天皇第三皇子(惟成親王)だったのだ。

 やんごとなき皇子が禅僧として鎌倉にくだった例としては、夢窓らの師・仏国禅師高峰顕日らの例がある。梅隠は出家後、比叡山の護性院にすんでいたらしい。室町幕府に反旗をあげた小倉宮なんかとちがい、時代には順応していたようである。また(「梅花無尽蔵」所載・樵斎記が引く小伝によれば)、鎌倉に来てなんらかの重職についたのもたしかなようであり、京都にもどり、また美濃正法寺に小庵を創建したりしている。以上の年記は不明ながら、不確実な史料(歌書の書き込み)では1423年遷化となっている。それいがいに、梅隠の消息についてはもはやなにものこっていない。

 応永十二年には絶海中津禅師も没している。


 花筏は、瀬戸の平潟湾にもいっぱい浮いていた。波の随(まにま)にただようゴミにまじって、あんまりきれいなものではない。

 前述の浄願寺は瀬戸神社の神宮寺とされる。神社と引越の谷戸とのあいだにも多少の余地はあり、金沢八景の駅裏にみえる円通寺客殿の辺りもせまい谷戸になっている。円通寺は東照宮をまつる近世の小寺院で、寺自体はすでになく、東照宮も瀬戸神社に合祀された。ちょっとまえまで近隣に火事現場が放置されていたが、さいわい藁葺きの旧客殿は無事だった。ここで備前焼の悠心窯をひらいていたおじいさんは、この廃寺の子孫の方だったという。


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