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もちださんの鎌倉リポート No.197(2016年4月13日)



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侍従川


 六浦上行寺のまえはかつては海で、六浦庄六浦湊が存在した。その対岸を三艘の津といった。唐船三艘が着いたなどとつたえている。

 唐船がついたのはいつなのか、はっきりしていない。司馬江漢は永楽銭を積んでいた、と考証しているから室町時代のことだろうか。文永六年、称名寺の一切経をはこんできた、という説もある。ペリーなんかは東京湾をうろうろしたあげく、三浦半島のリアス海岸でも比較的おだやかで水深のある浦賀に回航された。そこは後北条氏いぜんからの軍港であり、幕府の奉行所もおかれていたから、艦隊を停泊させるには一理あったのだ。


 中世の湊のようすは、あきらかではない。上行寺には、日蓮上人が船問答をしたさい、そこに船を繋いだ記念の松の跡なんかがのこっている。伝説の真偽はさておくとしても、伝説が語られた江戸時代にはたしかに浜辺の松、といって不自然ではなかったのだろう。

 いまは門前の金沢道のむかいにコンビニがたち、海であったおもかげはない。朝比奈方面をみやれば、スシローのところにやぐらがみえたり、横浜銀行のさきをちょっといったところにある崖のうえに小山若犬丸二児の墓がたつなど、陸であった山側にはいくつか遺跡があるが、かつての入り海の跡はもはや平凡な郊外都市だ。


 三艘という地名はすでに地図からは消滅し、侍従川対岸にある三艘町内会館(文殊堂)や三艘橋などがわずかに付近の字名をつたえている。ただし町名は「六浦南」だ。

 ここにつたわる文殊は越前朝倉の一族・朝倉能登守(1523ころ-1593ころ)なる者が玉縄北条為昌の姻戚として客分にはいり、玉縄十八人衆のひとりとして活躍。その本拠・衣笠庄浦ノ郷にたてた追浜良心寺の旧本尊であったという。のち檀家によって三艘文殊堂にうつされ、そこが線路になったために町内会館に改築し、やや東にあたる現地に移転したのだという。能登守の実名は景高とも景澄とも重信ともいい、よくわかっていないが、同名異人も多く、混同には注意されたい。


 三艘町内会館は、京急逗子線が侍従川をわたってすぐの踏み切りのかたわらにある。この写真ではみぎに庚申塔1670をはさんで町内会館、左方の浅間神社裏あたりが堂の旧地だから、そんなにはなれてはいない。アルミサッシの扉には、三艘町内会図書室、なんてかかれた入り口もある。

 むかしは辻の堂が村の講のあつまり、すなわち町内会館だった。鎌倉でも材木座九品寺前、感応寺八雲神社跡にたつ公会堂が、いかにも村の講の余韻をのこす古い建物だ。お堂と鎮守、それに田舎消防団の半鐘を吊った鉄塔なんかがあれば、そこは申し分なく古い集落の中心地だったわけだ。三艘の村民が追浜の寺と檀家付き合いがあった、ということはかつてそこに海のみちが通い、経済的なつながりがあったからだ。ここはたしかに、湊だったのだ。


 かつての海のまんなかには、六浦公園という広場がちな児童公園があり、散り敷いたサクラの花びらのなかをカラスや鳩があそんでいる。数体の奇妙な石像があり、その一体はクリオネのようなものの腹をえぐって「六浦公園」という表札がはめこまれている。

 なぞの金沢猫はここにもいて、行きも帰りも、おなじところにじっとしている。えさをもらった場合、カラスに奪われないよう、鉄柵を楯にしているのかもしれない。ひと慣れしてあやしても逃げず、しっぽは短い。ただ「かねさわ物語」によれば、そんな特徴も諸書にまちまちで、あてにはならないのだとか。さきの「文永六年、一切経」説では、このお経をまもって三艘の泊にやってきた、ことになっている。


 侍従川のいわれは「小栗判官」のヒロイン・照手姫の死をなげいて、忠節なめのと「侍従」が身をなげたとされる。この物語には説経浄瑠璃そのほか、台本ごとに異本・異説が多く、六浦方面ににげる途中、追っ手につかまり、川に沈められた、というストーリーに登場するのが「侍従」だ。その場所はかつての入り海を通る現在の河道より上流でなければならないから、ヨークマート六浦店にちかい侍従橋・油堤あたりに想定されている。

 神仏の加護があって運良く潮にに流された照手は、野島の漁師にひろわれ介抱される。しかし漁師の妻は「妾を囲おうとしている」と邪推し、姫小島というところで照手を「いぶし殺し」にしようとする。・・・ちなみに邪険なはばあは、結末のハッピーエンドでノコギリ挽きとなって処罰される。また、村君太夫の夫婦松となって祀られたともいう。


 物語の正義はいろいろと歪んでいるが、それがたぶん中世というものなのだろう。

 姫小島はいまの新瀬戸橋のイオンのちかく、姫の島公園内「姫小島水門」跡地付近にあったとされる。その水門なるものは江戸のなかばごろ、金沢の入り海を淡水化し新田開発に資するため、旧瀬戸橋堤防の内側にもう一本もうけた汐除け堤防のなごりだ。満ち潮はせき止められ、金沢方面の入り海はこうして死んでいった。

 いっぽう六浦の入り海には塩田が作られ、十二所の塩嘗め地蔵の塩はこのへんでとれたものだった。赤穂の塩、なんてうそをいって明治あたりまで確かに売り歩いていたという。塩地蔵の類は全国にも数多く、さずかった塩で病がいえると倍そなえる、というパターンや、塞の神の転訛でみちゆく商人が初穂をおさめる、といった型が一般的。


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