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もちださんの鎌倉リポート No.2(2007年9月9日)



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やぐらとは何か・2



百八やぐら17号穴。如来の痕跡。
 やぐらの起源について、従来は「仁治の禁令1242」で市中に墳墓堂が建てられなくなったため、と推定されてきた。墳墓堂として知られるのは頼朝の法華堂などであるが、これは地下に石郭などをもうけて埋納する方式である。平泉の金色堂や京都南IC・鳥羽離宮遺跡の周辺に散在する天皇陵などが現存する代表的な例だ。

 堂を建てるほどでもない身分の人々は塚をきずいた。後白河院の発願とされる「餓鬼草紙」という絵巻によれば、棺郭のうえに土を盛り、野面石で基壇のように囲むものもある。この上に木製の板塔婆をならべてあり、それが朽ち果てて木が生えそだっている古い塚もえがかれている。塔婆には四面に仏像の浮き彫りを掲げた立派な笠塔婆もみえているが、いずれにせよ木製の塔婆は腐りやすいので、やがて五輪塔や石祠のたぐいに進化したのだろう。



同38号穴。立体的なレリーフで、かつては13基並んでいたらしい。
 これらの墓制が、「土地不足」という理由だけでやぐらに進化したという説明には無理がある、といわれるようになった。たとえば、高僧の塔所を囲むように分骨する「塔頭」という思想があったとする説や、インドからつたわり中国でさかんに模倣された石窟寺院、ないし江南の伝統的な洞窟墓などが日宋交流で直接影響したぶぶんもあるらしいという。



同29号穴。板塔婆型のレリーフで、このやぐら群に多くみられるタイプ。
 また、やぐらに転用されたおびただしい横穴墓(奈良時代)もヒントになったかもしれない。ただし一般のやぐらは天井が平らであることが特徴で、家型や半円筒型の多い横穴墓とは違う概念があったことはあきらかである。



百八やぐら25号穴。中央穴に骨壷や写経石をうめた典型的な構造。
 鎌倉のやぐらのうちで祭祀用の装飾巨大窟をいくつも構え、ふもとに当時最大の公立寺院「永福寺」廃寺をかかえる百八やぐら(杉ヶ谷群)こそが、やぐら信仰の総本山であったことはうたがえない。その異様な規模から見て、一氏族のものではなく、おそらく地方武士などのための公営墓地、火葬骨の一時保管場所のような役割も兼ねていただろう。大型窟には納骨穴のような恒久的な施設にとぼしいものも少なくないからだ。



同17号穴。梵字は右の半欠けが勢至菩薩、左は金剛界大日(バン)か。
 東尾根にのこる古道の痕跡からみて、当時は下の沢からのぼって来たものと考えうる。その根本の場所にあたる第17号穴・通称「大梵字」は8つの大梵字に4体の仏像浮き彫り、そしてまんなかの無地のスペースに懸仏や仏壇など、いまでは消失したなんらかの本尊が想定される。風化のため全容がつかみづらいが、つまり定型化される以前の十三仏を示しているようで興味深い。


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