トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第20号 


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もちださんの鎌倉リポート No.20(2008年2月10日)



No.19
No.21



「神風」は吹いたか?・1



七里ヶ浜。
 室町の禅僧・瑞渓周鳳(1391-1473)がまとめた外交資料集『善隣国宝記』では、聖徳太子を批判してつぎのようにいっている。「けだし表の辞に、もし隋帝悦ばざるがごときのものあらば、すなはち使者はまた命を達すること能はざらん【注1】」。

 聖徳太子が隋の煬帝(楊広539-618)にたいして対等の立場で国書を送ったというあの事件を、わがことのように恐縮し、太子の「ナショナリズム」にはげしく憤る変わり者が、中世にもいたことがわかる。十二巻本『北条九代記』には、こんな空想シーンも描かれている。「日本朝貢の使者、国書を捧げて来たれり。・・・天皇(※煬帝のこと)見そなはれ給ひて『天に二つの日無く、国に二つの王なし。日没処の天子とは何者ぞや』とて大いに無礼を咎め給ひけり」。

 煬帝は激怒した――学者の用いる決まり文句は「走れメロス」に似ていて、ついつい吹き出してしまうが、たぶんこれには誤解がある。『隋書』によれば、煬帝はたしかに悦びはしなかったものの、「鴻臚卿に謂い曰わしむらく、蛮夷の書は礼無きこともあれば、また、以って聞すること莫れ、と。」といっているにすぎない。

 「外務大臣を通じて遣隋使側に次のように要請した。異民族の国書というものはわが方のしきたりを知らないことが多いのだから、今後は公に読み上げないでほしい、と」。儀式の場ではどんなやからが耳にするかわからない。つまり国書の言辞をめぐって無用な紛争がおきないように、という煬帝なりの配慮だったと解釈できる。


時宗は江ノ島近くの龍ノ口で元使・杜世忠(元・34)、何文著(漢・38)、徐賛、上佐ほか韓奴一名を斬った。



元使のひとり一山(いっさん)一寧は帰化して建長寺に住した。山門の額はともに来日した西澗子曇(すどん)の筆という。
 なぜならこれは「論語」をもとにしている。有名な見ザル、言わザル、聞かザルの教えのルーツにもなっているが、礼に欠けることを見聞きしたり話題にして小人は心を乱してはならない、ということだ。昨年、某テレビ局で再現していた「煬帝」は、くわわわわわ、と奇声をあげるや、みずから刃物を振り回し小野妹子に斬りかかっていったが、感情をまるだしにした「煬帝」はこっけいで見苦しく、まさに昂奮したチンパンジーそのもの。娯楽番組としてはそれでいいのかもしれないが、皇帝みずからが「あさましい猿」では、『隋書』の本文としてまったく意味をなさない。

 『隋書』によると「新羅・百済は、みな倭を以って大国にして珍物多しとなし、ならびてこれを敬仰」していたという。その大国の都「邪靡堆(魏志のいわゆる邪馬台)」は「戸十万ばかり」で洛陽・長安にせまる大都市だった。黄砂をつきかためて造った隋の砂の都はもうなんのあとかたもないが、飛鳥大仏はいまも当時と同じ場所に条理遺構とともに残っている。当時、隋は高句麗征伐を進めていた。当時の半島諸国が心酔していた日本との和親に努めなかったはずがない。羅済両国が「倭」に代々の世子(王太子)を人質にたてまつってきたことは、記紀よりも「三国史記」など変体漢文でかかれた韓国の古文献にくわしい。

 さて、それでどうなったか。唐・宋にかけて、日中間にはおもに国書によらない外交が定着していったことが文献からも裏付けられている。また空海(774-835)は、漂着した福州で国書が無いことを怪しまれた遣唐使一行のために、「国書がないのは両国の伝統」という意味の弁明(「福州の刺吏に与ふる書」)を現地の知事に書き送って受け入れられている。用件はおもに「牒」という書式の実務文書ですませており、僧や商人にたくして届けさせることもすくなくなかった。日本は「大宰府」の名義、唐や宋は「明州府(寧波)」の名義で中央の意志をつたえていたようだ。

 ことに宋の皇帝ははやくから日中の和親に熱心だった。渡来した日本僧を「大師」とよんだり、突然日本に大量の信物(おくりもの)を届けたりしたことが、当時の記録にみえている。契丹、西夏、金、蒙古とたたかう宋は貿易を生命線としていた。「然(938-1016)、成尋(1011-81)、重源(1121-1206)、栄西(1141-1215)、俊仍※(1166-1227)、道元(1200-53)、円爾(1202-80)、南浦紹明(1235-1308)ら多数の僧が平穏に留学できたのも、こうした環境があったからである【注2】。


円覚寺の鐘銘はまぎれもなく子曇の撰(1301)。「国泰民安」などの常套句が大きくあしらわれている。



弘安の役の前年に八幡宮は全焼。日蓮は八幡の神が権力者にこびたので天罰を受け日本を去ったと理解した。
 たしかに、日唐はいちど戦争をしたことがある。無能な百済王の案内により、白村江で庵原の君(静岡県)がひきいる先発隊が現地軍とむすびついた唐の大軍からいっぽうてきな奇襲を受け、全滅したあの事件だ。むろん神風など吹きはしなかった。しかし、上毛野稚子・安倍比羅夫ら主要な武将は百済を放棄、すぐに引き返したことでその後の復好は順調なものとなり、直接航海による民間貿易もさかんになって、五代十国(分裂唐)のころにもしきりに留学僧が往来した。廃仏で荒廃した寺々に典籍を逆輸出したこともあるらしい。

 遣唐使の廃止もたんに唐側の戦乱のためだった。あちらの王が四川省に逃亡するなどしているさいちゅうに、どうして使節を派遣できただろうか。「唐と断交し自国中心の国風文化を築いた」「それは世界一の中華文明を知ろうとしない日本人の偏狭なナショナリズム・・・」などという無責任な学説がかつて根拠もなく風靡していたが、そんな説明は現在、否定されつつある。

 「われこそは全世界の支配者」「従わねば殺す」などという粗暴な国書が執拗に送られてくるのは元や明の時代になってからだ。こうなってくるともはや気違いとしてもて扱うしかない。北条幕府のように無視して破り捨ててしまうか、秀吉のようにみずから喧嘩を買って出るのでなければ、相手をおだて、ガラガラであやすようにして、念入りにお静まり願うしか方法はなかっただろう。ほうっておいても、そんな恐喝外交をつづける国はやがて世界の表舞台からころげ落ちていくだけなのだ。

 瑞渓周鳳が太子を非難したのは、かれ自身が生きた時代の特殊な事情を反映したものにすぎない。一時期の中国王の病的な性格が、いまも中国全体のガラの悪いイメージとして定着し、逆らったら怖い、と煬帝に敬語まで使うおかしなニヒリストを生みだすほど歴史全体をゆがめているのだとすれば、なんとも残念なことである。


鶴岡八幡宮は海外を平定した伝説を持つ応神天皇を大菩薩として祀る「護国寺院」で、座不冷(さまさず)の壇所というところで不断の修法がおこなわれていた。

【注1】「善隣国宝記」は群書類従に所載。十二巻本「九代記」は有朋堂文庫。「隋書」倭国伝などは岩波文庫が便利。
【注2】俊「仍※」の字は正確には草冠がつく。外字。


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