トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第200号 


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もちださんの鎌倉リポート No.200(2016年4月24日)



No.199
No.201



やきものについて・1



瀬戸の四耳壷(東京国立博物館)
 陶磁器は用途や素材によって、さまざまな種類がある。人類はまず煮炊きや製塩、炉の底に適した素焼きの土器を必要とした。断層の多い日本の風土では使いやすい粘土が容易に採取でき、やきもの発祥地になったのであろう。器としては外にも籠細工や塗り物もさかえていた。

 薄手の花瓶やガラス質の磁器は熱に弱く、ほんらいの煮炊きには全く適していない。ただ砂漠地帯では大きな水がめが求められたし、粘土のない地域でも石を砕き、高温で焼くなど、必要に応じたあらたな技術がうまれていったようだ。



常滑(八菅神社経塚)
 ガラス質の釉をもちいた水がめ様の硬質陶器を須恵器という。これは古墳時代前後、品部という大陸系の奴隷に焼かせたもののようで、やがて日用品にもとりいれられ、流通の拡大とともに土の適した名産地に集約、中世の大甕といえばまず常滑、とよばれるようになった。常滑系の名品としては、横須賀線新川崎ちかくの夢見ヶ崎公園付近から出土した国宝・秋草文壷(渥美窯)がしられる。

 瀬戸では唐代より流行の青磁白磁、黒釉天目などのうつしが焼かれた。こちらは主に装飾用で、輸入の実物が普及したことから国産品はかなり大味なものにとどまった。龍なんかをゴテゴテとあしらった舶来品のくどさ、金満趣味を故意に排した、いわば暮らしのなかのプチ贅沢、といったところだろうか。おおざっぱにいう常滑・瀬戸系以外にも、土器(かわらけ)、火鉢、すり鉢(おろし皿)など、用途にしたがい各種陶器の名産地がうまれていった。 



三彩(東京国立博物館)
 中国の北京にはいまも瑠璃廠という骨董街があって、もともとは皇帝の瑠璃瓦を焼いたところだった。やがて壷などの宝器の補修、忠実な複製などにたずさわるようになり、書画骨董にまで手を広げるにいたった。骨董としての意味(=真贋)はともかくとして、技術はそうした研究の中で磨かれたらしい。土(石)質のちがい、膨大な発色のくみ合わせなど、錬金術的な試行錯誤がなされたのだろう。

 日本でも律令期に瑠璃瓦や唐三彩が模倣され、唐人瓦師が活躍したことから、瑠璃廠のごときものがあったにちがいない。信長の安土城の跡にはかつて、鉄のように重い青瓦が無数に散乱しており、外気にふれない部分にえのぐのような、完璧な青を残すのものもあった。これを焼いたのは唐人一観とつたえている。樂焼を創始した長次郎も瓦師の出で、利休はまず「ゆがミかうらい」から焼かせている。チューリップ型の、いわゆる熊川(こもがい)系統の茶碗をうつしたものらしい。



かつての安土城跡
 かつて瓦師は土器師・土鍋などとともに非人の一種とされていた。秀吉がつれてきた多くの朝鮮奴隷が窯をひらいた、という伝説が九州各地にのこっているが、古唐津などはずっと以前からあったようで、半島自体の技術が稚拙だったこともあり、当初はなんの変化をもたらさなかった。大陸から明・景徳鎮の技術がはいるのは100年後、日本固有の京焼・粟田焼などをまねた薩摩焼などにいたっては、さらにずっとあとになってから。これらはもちろん、半島をまったく経由しない系統のものだ。

 朝鮮半島では乱交儀礼などを象った、性的土偶をちりばめる呪術的な壷(伽耶土器)が主流で、やがて宋・元からはいった青磁・花紋・鉄絵などが退化した、素朴な陶器をつくりはじめた。現代ではパラアートとか、アウトサイダー芸術、アール‐ブリュットとかいっている、ある種ふしぎな魅力をたたえたものもある。

 高麗茶碗、とよんでいるものは李朝時代の粗末な青磁の一種(粉青沙器)で、一見とても青磁にはみえないような色味を呈し、かなり素朴でシンプルなものが「選ばれている」。それはもともと朝鮮の粗末な粥鉢で、じっさい茶器であったわけではなく、何百何千とつくられた未熟な雑器のなかで不意にうまれでたものにすぎなかった。



熊川・井戸(東京国立博物館)
 「市中の閑居」といわれた小庭の狭い茶室には、仙人がつかうような粗末な茶碗がよく似合う。仙人であれば底がないような不具なうつわでさえ、自在にもちいるはず。たとえその器が痴呆美、ないし狂気すらたたえているとしても、それこそ理想化された仙人の境地であり、茶人じしんのすがたでもあった。

 「好み」、すなわちうつわの取捨選択は茶人固有のきびしい美学にもとづいており、本場明国や現地での評価とはまったくかかわりをもたない。極端なはなし、五輪塔を改造して蹲(つくばい・手水鉢)なんかにもしてしまう。思いもかけないものを用いる、それが茶人の創意なので、仙人の器にみえればそれでいいのだ。

 現地にもかけらすら、残っていない。徳川時代に草梁倭館(プサンにあった出島)をつうじて、なんども切り紙(型)をおくり特注してみたが、おなじものはできなかった。もとより歩留まりがはげしい稚拙な技法でつくられた、不良品すれすれの「B級品」であったからこそ、ひとつとない偶然がまじっていた。丸いはずがなんだか髑髏のようになってしまったり、おっぱいのようになってしまったり。青が赤になり、化粧土がながれて霞となり、梅皮(かいらぎ)とよばれる独特の爛れを生じる。常人にはけしてなしえないような見所は、なにもかんがえず、なにも感じず、なにも意図せずうまれた器だからこそ。高麗の上手物におもしろいものはない。



土器(かわらけ・玉縄資料館)
 茶陶ではゆがみ、ひび、ケロイドなどを特徴とする、きわめて前衛的な、偶然性を尊ぶ。しぜんにあらわれた火の色、割れ、修復の痕などを、景色などといって抽象絵画にみたてている。本場の唐物にはそうした空想のはいるよゆうがない。それは中世の常滑・瀬戸の、大味につくられたもののなかから、わびさび・しをり・冷え・・・などといった神秘の感覚をつむいできた蓄積の結果なのだろう。

 高麗茶碗の流行を受けるかのように、伊賀・織部など、故意につぶれた陶器をつくる「好み」もあった。しかしそこに作為、あざとさがあるとすれば、すぐ文字通りのゲテモノ(下手物)に堕してしまう。北鎌倉の山崎に星岡窯をひらいた北大路魯山人(1883-1959)というひとは、古器を研究し、けっこう器用にまねたけれど、独創といういみでは世間の名声ほどすばらしいというものでもない。そういえば、この魯山人の閑居も、放火で焼けてしまった。

 伝統もだいじだけれど、たとえばルーシー・リー(Lucie Rie 1902 – 1995)なんて作家が人気なのは、これまでの日本になかったかたち、独自の色味だったからだ。センスだけでなく、より冒険的な技術の蓄積があるのだろう。



青磁(東京国立博物館)
 絵付けのような人工的な装飾は本阿弥光悦・野々村仁清ら、書画にすぐれた芸術家の進出をまたねばならず、景徳鎮をしのぐ伊万里・鍋島などの高度な発展も、まずこうした国風陶器の隆盛を前提としていた。おなじではだめなのだ。趣味と独創の蓄積がなければ、輸入のほうがはるかに安くつく。

 景徳鎮にも、明・清国内の王侯むけにつくったものと、イスラム圏むけの青花、日本向けの赤絵など、消費地域の好み・選択・注文に応じておおきなちがいがあるそうだ。ほかの地域はもちろん、つくられた現地でもまったく出土しないものがあるという。美的な「好み」を形成してきたという点で、唐物もまた日本の歴史のいちぶといってよいと思う。

 掘り出されたちっぽけなかけらにも大きな価値があるのは、「そこにあった」ことを証明されるから。その場所でつかわれてきた、その伝来の歴史こそが価値なのだ。勝手に盗掘したり、オークションにでた出所不明のものを、ただ金に飽かせて買いあつめただけでは、いみがない。歴史を買うことなんて、できないのだ。


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