トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第201号 


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もちださんの鎌倉リポート No.201(2016年4月25日)



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やきものについて・2



小町(若宮大路周辺遺跡)
 この青磁小皿の見込み中央には、沈線によって奔放にえがかれた素朴な魚文がある。そこにガラス質の青色釉が溜まって濃い青色を呈している。胎土と釉薬の収縮率や冷却点がちがうために、釉にはこまかなヒビ(貫入)が入っている。おそらく南宋でつくられた、普及品の青磁なのだ。もうすこしよい物だと線刻ではなくて印文などを押す。

 日本では朱器台盤などといって、身分ある者の食器は塗り物の椀がふつうだった。ただ青磁にも磨き砂の痕があるものも多いらしく、食器として使われたとすれば、宋元からつたわった、茶礼の点心などをまねたものだろう。

 今回は市役所文化財課のわきに展示してあった、鎌倉出土の中世陶器について。とくに名品というわけではない。



大町(米町遺跡)・上と同じ
 中世には付喪神の信仰があり、いまも私たちが他人の歯ブラシや湯飲みをいやがるように、ものに穢れのつくことを嫌った。それはじっさいの汚れというよりは、むしろ呪いや生き霊のようなものだった。個人膳は日本特有の風習で、韓国人などはみそ汁などでさえ、おなじ器でつつく。

 中世には宴会用の特殊な「土器(かわらけ)」があった。それは神事につかう使い捨ての清浄な器とおなじもので、燈明皿などにもちいたいっぱんの「かわらけ」とはちがい、やたら売っているようなものではなかったらしい。金沢文庫の貞顕文書には「白土器、并びに村雲」なるものを苦心して工面した記述がある。

 古い時代の青磁は灰釉で、呉須などの顔料を混ぜず、特定の草木を焼いた灰などから発色剤となる鉄分などを調合した。胎土のくすんだ色味とあわさって、自然の玉石のような風合いをうむ。日本人はどうも、均質な人工美よりまだらなもののほうに惹かれていたふしがある。



御成町(若宮大路周辺遺跡)
 これは御成小の向かいから出土した瀬戸の仏花瓶。市役所でくばっている「鎌倉の埋蔵文化財10」に出土状況がでていたもので、この小冊子のバックナンバーは市のHPからもPDFでダウンロードできる。

 仏花瓶は香炉・蝋燭とともに三具足とよばれるもの。板碑にも三具足がイラストで描かれているが、鎌倉時代のものには花瓶だけが左右一対に描かれるばあいが圧倒的。これは大寺院用の大花瓶ではなく一輪挿しにちかいものだが、「埋文10」の発掘状況ではたしかに一対となるような、似たかんじの花瓶と同時出土している。賤しからぬちいさな祠と、辻にたって日々の花を売り歩く、まずしい女なんかが彷彿とする。

 ちなみにローソクはウルシの副産物として、中世後期には普及しはじめていたらしい。蜜蝋をつかっていた時代には仏具としても超高級品だったものだ。現在は安価なパラフィンなどをもちいている。



瀬戸おろし小皿
 おろし皿もよく出土するらしい。食材の擦りやすさを追求した結果なのか、櫛目はどれもひどく雑につけられているのが特徴。右下部にそそぎ口があり、大根とか山葵、蓼、柚子のたぐいをおろして酢や醤などを注ぎまぜ、果汁を絞るなどして刺身のソースにしたものだろう。各人が食膳でくりくりやって、このみの味を拵えたのかもしれない。

 中世の絵巻などでは、刺身は主人が客の前で「包丁式」、いまでいう解体ショーみたいなことをやって清潔さ・新鮮さをほこってみせたようだ。

 宮中の宴会では、食膳が山盛りになっていて、のこりは下部がいただくから、箸に触れないよう上品に残すのがマナーだった。女房の歌に「あかき月には残る隈なし」と皮肉ったものがあるが、これはお酒なんかを載せた深紅のサイド‐テーブル「高杯(つき)」のかけことばで、彼女達もご馳走ののこりを期待していたわけだ。それをのこらず平らげてしまった貴公子たちを、気の利かないケチな男と、からかい気味にあてこすっている。



常滑小壷(若宮大路周辺遺跡)
 日常用途につかったのが常滑。退蔵銭がでてきたり、遺骨がでてきたりするのもこのたぐいで、ふつうにつかったものは消耗品だからほぼ割れている。素焼きよりは堅く、甕のような肌合いなのが写真からもわかると思う。

 昭和初期には、こんなものを掘るために鎌倉のやぐらの多くが盗掘された。けっきょく欠けていて価値がない、などとして荒らしたまま放置して行くことが横行したようである。考古的価値は美術的価値とはことなり、出土状況にこそ意味がある。割れていたとしても、埋納状況から多くのことがわかったかもしれない。多くのばかが、無為にそれをこわしていったのだ。


 割れたものは石膏などで修復してある。建長寺の大花瓶などはラベルが貼られたり雑なあつかいが窺われるが、それでも時頼献納の由緒あるものだけに金継ぎがほどこされている。膠で貼った痕に金泥をぬりウルシをかけて装飾したもので、傷口がわかるようにしていた。

 骨董屋のたぐいでは値打ちをごまかすため、欠失部がわからないように彩色することも多いというが、考古品ではわざと「わかる」ようにするという。壁画なんかでも補彩部分はわざと色を変える。海外のフレスコ画の例では、充填ぶぶんに激細ボールペンのようなもので、三原色を組み合わせこまかな格子を描くものがあった。それほどよい仕上がりとはいえないが意図はあきらか。近づいてみれば修復部分が一目瞭然、というわけ。

 左の「印花紋」というのは、スタンプのようなもので浮き彫りをあらわしたもの。曲面の多い壷なんかには貼り付けもおこなわれた。鎌倉の仏像にみられる「貼り付け土紋」なんていうのも、この技法をヒントにしたのかもしれない。 


 この火鉢は色目からして素焼きとしてはやや硬い、瓦器系の土と製法をもちいている。伊賀や和泉あたりの名産であったらしい。炭は高級品だから、庶民は木の根の燃えさしなども用いていただろう。

 縄文時代からの竪穴住居では土間に炉がおかれ、おそらく上部の部屋をあたためるようになっていたが、火災の危険から囲炉裏や火鉢といったものに火気は集約されていった。中国各地のオンドルのようなものは夏がきびしい日本には向かなかったし、南京虫が湧くといった衛生上の問題もあったようだ。

 燈明には油をもちいたが、荏胡麻あぶらなどの正式な物を買えない庶民などは、いるかなどの魚脂油をもちいて耐え難い悪臭を放っていたという。燈明皿の分析などで、武士や庶民のくらしのレベルがわかるかもしれない。


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