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もちださんの鎌倉リポート No.202(2016年4月29日)



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五郎丸の墓


 横浜駅をでたJR・相鉄線がくぐる跨線橋は平沼橋。ランドマークタワーが真正面に見える、帷子川の橋だ。橋をわたり京急のガードに沿って、もうちょっとあるくと京急の戸部駅がある。その戸部駅のさきのちいさな丘を、御所山といっている。ここに「曽我ものがたり」にみえる御所五郎丸がすんでいたという。

 海抜10数メートルの貧弱な丘にすぎないが、中世には横浜・関内ふきんは入り海であったから、この丘は掃部山・伊勢山・野毛山へとつづく、風光明媚な一連の岬のいちぶだった。五郎丸は小舎人童(小姓)としるされ、仇討ちの直後、頼朝の御前にせまった曽我兄弟の弟・五郎時致をとらえる大手柄をあげた(1193.5.28・吾妻鏡)。


 平子有長、愛甲季隆ら名だたる武士が手傷を負った凶暴な兄弟を、小姓の分際でとらえたからには、なにか裏があるのかもしれない。後世にはさまざまな憶測がうまれる。中世の少年愛の連想からか、そもそも兄弟に「その仇・工藤の居場所」を教えた優しい心根をつたえるものや、「五郎丸は女装して油断をさそった」のであり、「武士としてあるまじき卑怯な振る舞い」だとしてやがて流罪となった、などの説もでた。

 五郎丸といえば、西鎌倉の広町緑地入り口付近にも「御所ヶ谷」「御所五郎丸公園」「五郎丸橋」なるものがあり、五郎丸にまつわる伝承地は「流刑地」とされた山梨県(南アルプス市)など、地方にもさらに点々とある。ただ、鎌倉期のふるい五輪塔というみどころを有するのは、御所山をおいてほかにはない。


 墓と称するものは丘中腹あたり。みじかいトンネルをでたばかりの線路をまたぐ御所山橋のちょっと西、おちついた住宅街のなかにある。塔は空風輪が後補であるほかは凝灰岩製で、破損は多いがこの種のものとしては保存状態もわるくない。ここにもたらされた経緯は不明ながら、おそらく近所の横穴墓(かんかん穴・転用やぐら)が切り崩されたさいに取り出されたものではないか、と思われる。もちろん五郎丸のものとする保証はない。

 そのむかし、墓の下を掘り返したものがいたが、なにもなかった。あたりに家が建ち、散乱する墓石のうえに板を敷いて八百屋を始めたものが、夢に五郎丸のお告げをききながら、無視して商売をつづけたところ、祟りがあいつぎ、ついに元通りまつるようになった。そんな口碑があるという。

 異説としては「戸部民部」なるものの古塚、ふるくは平安後期、少弍武藤氏の先祖・武藤頼氏の墓説など。頼氏は御子左家の分流で、前九年・後三年の役で源氏にしたがい、戸部を領したとの伝えがあるという。また室町時代には扇谷上杉の臣「山本大膳」、戦国時代には北条氏照の代官「上原出羽守・・・」等。ただ「風土記稿」のいう戸部民部は詳細不明、その他の人物も石塔と時代観があわず、決め手にかける。もとよりあいまいな伝承に、正体なんてものはないのだ。


 五郎丸の出自は不明ながら、横浜港ふきんは中世、平子氏が治めていた関係上、とりあえず平子氏の一族、とでも仮定しておきたい。実家がここにちっちゃい城をかまえていたとして、不自然ではないからだ。平子氏は海の民・三浦党とも、陸の雄・武蔵七党の横山党の出ともいわれが、両者は姻戚でもあった。横山党は小町の血筋だからおそらく美男、平子有長がかつて無断任官の件で頼朝に叱られたさいにも、他の武士のように「油断顔」「まぬけ面」「胴間声」などという、どぎつい批判はなかった。

 小姓はいわゆる雑用係りだが、諸芸にすぐれ、すがたが美しい、貴人お気に入りの若者(寵童)だった。頼朝はすでに右大将に任じていたから、近衛府の小舎人童だなんて気取った呼び方にしたのだろう。五郎時致はすでにおとなしく出頭してきたのかもしれないし、人に手伝ってもらっても寵童の手柄としか記されていないのかもしれない。

シテ「おのれは何者ぞ。
ツレ「御所の五郎丸。
地「あら物々し、とわだがみつかんで、えいや/\と組み転んで、時致上になりける所を、下よりえいやと又押し返し、その時大勢おり重なつて千筋の縄を、かけまくも忝くも君の御前に、追つ立て行くこそめでたけれ。(能「夜討曽我」)


 御所山の尾根筋を「ランドマーク」めざして海側にくだると岩亀横丁にでる。ここは開港後、横浜へむかう横浜道(野毛の切り通し)の支線にあたり、風光の地・掃部山などへむかう人々などでにぎわった。開港直後、各国の要求と外国人封じ込めの目的でもうけられた遊郭の、黴毒にかかった遊女等の療養施設も、ここにもうけられた。ワイシャツ屋の裏路地にある、岩亀稲荷がそのなごり。

 治療はヘボン博士に依頼したという。ペニシリンなどなかった当時、殺菌には劇薬のキニーネや有害な水銀、砒素の服用がおこなわれたから、命がけだった。それでも、からだの一部が黒く醜く壊死してしまうよりは、まだましだったようだ。宣教医ヘボンも、だれが感染させたかよく知っていた。羅紗緬(らしゃめん)などといって、外国人専用の遊女は、決まっていたから。かの女らは、開国の殉教者だった。開国という国策、文明開化や国土防衛などといった、ひとびとの公正明大な欲望の捨て石になることによって、くるしんだ。


 「露をだに厭うやまとの女郎花 降るあめりかに袖は濡らさじ」・・・金持ちのアメリカ人の要求をはねつけ自害したとされる伝説の遊女、喜遊の辞世がかかげられている。裕福な外国人からの身請けを拒絶したそのことを、多くのひとが国の誇りと賞賛し、はやし立ててきた。しかし彼女らの多くは、はじめから【外国人専用】とされてきたのではなかったか。いわゆる「鎌倉攘夷事件」と、ほぼおなじころの話だという。

 死ななければ国の恥。だれもが思うほど卑しめられた職業を、強要したのはだれだったのだろう。長崎奉行や神奈川奉行なのか。遊女屋を経営した非人たちなのか。好色外人をつかわしたアメリカ大統領やキリスト者たちなのか。ひとはブラック企業を批判しながらやすくてうまいとそこに通い、いじめ学園にあたまをさげて子供を通わす。かつて日本教育テレビをなのったある局は、津々浦々の風俗街を堪能する名物番組を多年にわたって実演つきで提供し、すけべ心に訴えてきた。社会の悲劇なんてものはどれもたぶん、声高に他人のせいにしたがるすべての人間の、【無自覚】のしわざにちがいない。


 人々はそれまで、なんの気にもとめなかったことを、「知る」ことによってとつぜん禁止しはじめる。それが「知への意思」なのだ、と哲学者ミシェル‐フーコー(Michel Foucault 1926-1984)は書いている。学生時代に読んだのだから、詳しいことは忘れちゃったけれど、たとえば中世の衆道(いわゆる男色)だってたぶん、キリスト教の伝来によってタブー(=アブノーマル)になったのだろう。

 フーコーもたぶん、ゲイだった。フランシス‐ベーコンとかメイプルソープとか、芸術家にはその筋の人がおおいと聞く。私はべつにそっちの趣味はないけれど、人力車夫をついつい見てしまうのは、いまどき手甲とか腹掛けをしてるのがめずらしいから。名前が似ている五郎丸選手はみたことがないが、伝説の人気ドラマ「スクール‐ウォーズ」で不良少年・大木大助を演じた俳優さんとは、こどものころ電車のドアのところで鉢合わせしたことがある。窓をみつめる横顔は、たしかに、かっこよかった。


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