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もちださんの鎌倉リポート No.204(2016年5月9日)



No.203
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『彼方』・2


 「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」。たったこれだけの「学説」を、日蓮聖人は生涯にわたって執拗にくりかえしていた。

○ 大難に度々値う人をこそ、滅後の法華経の行者とは知り候はめ。日蓮一人、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経等と声も惜しまず唱うるなり。
○ 賢者等も、日蓮を見ては理を曲げて非とをこなう。日本国の中に、一人として「故こそあるらめ」という人なし。
○ 大蒙古の来りしは、偏に日蓮がゆへにあらずや。正法を行ずる者を国主あだみ、邪法を行ずる者の方人せば、大梵天王・帝釈・日月・四天等、隣国の賢王の身に入り、代わりてその国を攻むべしとみゆ。(引用は「報恩抄」1276)



本興寺門前の辻説法跡
 このような理論の当否はしばらくおくとして、ようするに「日蓮一人」以外は謗法の天魔で地獄におちろ、といっている。自分を信じない日本人はすべて蒙古に攻められて死ね、蒙古こそ「賢王」であり、尊いじぶんを救いにやってきた眷族(家来)なのだとよろこぶ。じぶんに同情しない月をながめては、激しく「月天子」を叱りつける。「日蓮一人」、そこに論理の飛躍があって、弟子も信者も恩人も先人も、まったく考慮には価しないがごとくだ。「じぶんが本尊」、それがこのひとの一切のさとりだった。

○ 日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。

 まったく同じような内容の「大論文」を、毎度新発見のようになんどもしつこく書いたのは、たぶん、ふかく理解する者がすくなかったためだろう。「日蓮一人」が真の仏かどうかはともかくも、他の神仏を完全に捨て去ること、ないし自分以外の他人を呪い、「謗法の天魔」「地獄に堕ちてうせろ」ときめつけることに、躊躇する弟子もすくなくなかったのだろう。



立体曼荼羅(都内)
 「弥陀薬師等の形像、或は足駄の面に彫り、或は草履に焼附け、或は猛火に投げ、河水に流す等、悪名世間に区々に候。この事、跡形なき事にて候」。孫弟子の日印は否定するが、そういう噂はすでに鎌倉時代からあった(鎌倉殿中問答記録1318)。

 まず日蓮じしんが他人の信教に土足で踏み込み、禍いの種をまきながら、いじめられたといって飢饉や災害、元高麗の来襲など、社会の不幸を仏罰だとよろこぶ。「日本国を失わんと呪詛する法師なり」、そんなふうに言われたと、みずからも書いている。こうした問題はりくつではない。いっぽうてきな被害感情は当人の社会的な疎外感や負債感、自尊心によっていくらでも増幅される。他罰的行動にでるか、自傷に走るか、「自分の王国」にひき籠ってしまうかは、それぞれの人生で、予測することはむずかしい。



叡山西塔を模した相輪橖(妙長寺)
 日蓮は法華専門であるはずの比叡山においてすら、「理同事勝」、つまり長いあいだ「法華経は真言ほど実用的でない」、といわれてきたのに着目し腹をたてた。重箱の隅をつつくような、その程度のことで、地獄におちるべきだとかんがえた。一向一揆の殲滅、比叡山や根来寺の焼き討ちなどは、むろん為政者のおもわくにすぎないが、「やつらに天罰・仏罰などはない」との考えはもとより日蓮門徒やキリシタンの示唆にゆらいしている。

 信長は日蓮宗や耶蘇教を、既存の宗教勢力の削減に、道具としてりようした。だから日蓮僧の分際で「安土宗論1579」に論破され、完敗したような無能の僧にはきびしかった。宗派全体の罪はとわなかった分、わざと勝たせるようなこともしなかった。宗教者のがわでも、権力の道具になってでもいきのびる必要があった。敵対する山科本願寺の焼き討ち1532も、室町幕府の権力闘争に便乗したもので、天文法華の乱1536では逆に山門に焼き討ちされることもあった。本能寺をはじめとする洛中の寺々は、濠をめぐらし、すでに重武装もしていた。

 じぶんの「学説」の正当性いがいにはなんの関心もなく、他人の生死にはいっこうに無感覚だった日蓮の宗派も、こうして民衆支配の歯車のひとつへと、いちづけられていった。不受不施派としてさいごまで抵抗したのは、もともとおちこぼれた僧たちだったのかもしれない。



日親の廟(妙隆寺)
 「なべかむり」日親が京都で拠点とした寺は、本法寺といって本阿弥清信(本光)を開基とつたえる。本阿弥家はもともと室町幕府御用達の刀剣の研ぎ師だったが、やがて今川家をへて信長に仕え、ひ孫に近世最大の工芸家・光悦(1558-1637)がうまれる。

 本法寺の信徒には長谷川等伯ら、他の美術家もおおかった。町人層とはいえ一流の文化人ともなれば、没落した堂上衆らと交際するようになる。下剋上という感情はまだのこっていた。身分制度のコンプレックスを贖ううえで、わたしたちはあなたがたに弾圧されてきた、いま風にいえば「私が日親だ」ということを、道義的優越感としてかかえていたのかもしれない。先師たちの法難は、ある種の財産、身分の引け目をこえる免罪符となっていた。

 日蓮宗には商工層の檀家が多く、たとえば妙法寺には「薬屋四郎次郎と云へる薬商人」があり、京都本圀寺再興のため「万匹」の勧進をあつめたという。法華経にはシャカを富豪になぞらえる「長者窮子」のたとえがあるように、もとより有徳人を讃える性格があった。



本興寺
 鎌倉には日蓮時代に直結する寺はすくなく、御草庵の「名跡をついだ」とか、由緒の場所にたてたとかいう微妙なものがおおい。幕府滅亡の直後、日蓮十八中老のひとり天目(1256-1337)が日蓮辻説法ゆかりの地にたてたという本興寺も、江戸初期に不受不施(日経・日奥)に連座し、いったん取り潰された。

 この本興寺には二世・日什(1314-1392)がでて、公方氏満を諌め1382、好感触を得たという(門徒古事)。もとは会津のひとで、宗門の内紛に疑問をいだいていたが、50過ぎてみずから開眼し、宗祖直伝をとなえて他の門派から独立した。このため本興寺は前述の破却のさい、日什門流が同名寺院を別の場所に再興し、分裂している。

 同じころ、「なべかむり」日親の伯父・日英(1346-1423)が、下総中山門徒のゆかりから千葉胤貞の宿所跡に妙隆寺をたてたとされる1385。妙隆寺には若き日親の修行伝説があるが、滞在のくわしい記録はない。ただ、宗門は公方府とはひかくてきうまくいっていたようだ。禅秀の乱後の敵味方供養1437のさい、妙隆寺をふくむ宗門のいちぶがボイコットしたが、公方持氏からさほど強いお咎めはなかった。



本覚寺
 ただ自意識の宗教である日蓮宗は、みずから分裂の種をかかえていた。少年のころから日蓮に近侍した六老僧のひとり日興は、なんども流刑地にお供した「じぶんにだけ」、秘法がさずけられているのだとした。日蓮没後は他の五老僧からもうとんじられ、教義の押し付けなど独善ぶりがたたって檀家とも対立、身延山を追われた。

 鎌倉本覚寺は鎌倉時代に夷堂なるものがあり、これも日蓮辻説法の遺跡だとして、初代・日出(1381-1459)が公方持氏の賛同をかち得て、寺にあらためた1438。梵鐘は古銘1410をきざみ、みずから木更津の寺からうばったものらしい。二世・日朝(1422-1500)は、身延山を興隆にみちびいた高名な学僧で、足利一門として京都で活躍した本能寺の日隆(1385-1464。桃井尚儀の子・外祖父斯波義将)とならび称された。かれが身延からもたらしたという、「日蓮大聖人の御分骨」がつたわっている。

 一説に御遺骨の実物は、過去に日興一派がすべて運び出していた、ともいわれる。なんだか「ダヴィンチ‐コード」みたいな話だが、ただ日興の富士大石寺、北山本門寺などに、それらしきものはつたわっていない。


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