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もちださんの鎌倉リポート No.205(2016年5月13日)



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『彼方』・3



松葉ヶ谷草庵跡?
 日蓮宗の研究者の多くは信徒なので、ともすれば神話寄りか仲間内の話題づくりにおわってしまう。いわば結論ありきの予定調和なのだ。他宗派への中傷はさておいて自家の問題、とくに宗門の分裂や、「体制迎合」と解される事跡については、くちをつぐむ。

 日蓮本人が平頼綱と対面し、和解した事情はあいまいなままだ。弟子の日朗は幕府から屋敷地をもらい、祈祷をひきうけた。その門下の日印(1264-1329)が北条高時の御前問答で大成功をおさめ、事実上布教黙認のお墨付きをえた(鎌倉殿中問答記録1319)などという幸福な所伝も、あいまいに揉み消されている。大恩ある鎌倉幕府がやがてほろんでいったのも、宗門の宣伝にはまずいとはんだんされてきた。ホイジンガが「中世の秋」にのべているように、聖性と俗性とを行き来する自己分裂的な振幅は、洋の東西をとわず激しかったようだ。


 「問答記録」を書きのこした日静(1298-1369)は、足利尊氏の母・清子の実兄。松葉谷本国寺(本勝寺)を日朗、日印から伝えられ、のちに尊氏の助力で京都にうつし(本圀寺1345)、六条門流という一大勢力をきずいた。このほか京都では妙顕寺日像(1269-1342)による四条門流が、後醍醐、足利義満・義持らをパトロンに隆盛をきわめていった。

 旧体制から「弾圧された」と言い張れば、北条幕府を討った新政権の庇護を得るには、つごうのいい宣伝になる。本圀寺は日蓮松葉ヶ谷草庵の後身とされ、のちにつくられた長勝寺の場所にあったとされている。また楞厳法親王こと妙法房の日叡(1334-1397)がひらいた現・妙法寺こそ草庵の故地、または本名であったともいう。「日叡」には同名異人もあり事跡はさだかでないが、大塔宮の子とされ、妙法寺ははやくより勅願寺となっていた。

 ただ宗門にとって、「権力の犬」であることも、けしていいことばかりではなかった。腐敗を告発する者、あしなみを乱す者には宗門より暗殺団がさしむけられる。弾圧すればするほど反権力・反主流派セクトがたちあがり、さらなる宗門の分裂をうながしてゆく。南朝にむすびつく者、戦国大名につかえるものもでた。


 既存勢力をてきとうに呪詛しておけば、なんとなく反体制サヨクのようにみせかけることができる。ただ、それは新体制を創造するにはいたらず、たんに宗教理念を政治勢力の消長に売り渡しているにすぎなかった。

 教理じたいは、現代に至るまでほとんど深化していない。もともと日蓮の法華信仰は、膨大な各経文からつごうのいい部分をつまみ食いした雑なものだったため、これを厳密に考察しようとすると、いちいち引用元をあたらなければならなくなる。そうすると、肝心の「法華経」内部にさえ、本・迹などといって、切り捨てなくてはならない不都合な部分がでてくる。「迹門十四品を捨つべし、これを読めば謗法堕獄」と云々。所依の聖典ですらちっちゃくなってゆく、という神学的な袋小路にはまっていったのだ。

 こうした解釈においても、宗門は分裂してきた。とりわけ日親の「伝燈鈔」には各流派の内訌・ゴシップが、しつこいほどしるされている。「諸門徒を好んで破する」とされた日親の慧眼は、教説そのものよりもむしろ、人間的な対立に分裂の根源をえぐりだす。



安国論を書いたとされる南面窟
 現代の文献学によれば、法華経は1-2世紀に成立した初期の大乗経典の漢訳に過ぎない。中世のひとびとは、まだ釈迦の実説としんじこんでいたが、実際には中世人がばかにしていた阿含経や法句経などのほうが、よほどゴータマ(釈迦)の実説にちかいといわれる。

 そうした現代の学問的詮索をぬきにしても、日蓮の論理には、ようするに九九の「二の段より九の段がすぐれている」「九の段は九九の王」「ほかの段を抹殺しなければ謗法堕獄(地獄堕ち)」というような、ナンセンスな飛躍がある。もしそうであるなら、他経を恣ままに引用・援用した日蓮自身、すでに謗法の罪をかさね、地獄に堕ちて死んでいる。「幼稚な経は方便」といいながら、法華経じたいも題目(題名)だけにけずってしまい、わけのわからぬ七面女神などを創作し、我意にまかせてちりばめる。はてはこんなことさえ絶叫する。「・・・(自分のような大菩薩が)末法にも又出で来たり給わずば、(釈迦というやつは)大妄語の大士なり」。(観心本尊抄1273)

 これはいったい、自家撞着以外のなんだろう。「自語相違と申すはこれなり、外道が仏陀を大妄語の者と咲(わら)いしこと、これなり」。自分勝手にえらんだ数文字いがい、「あらゆる経文はすべて釈迦のついた悪質なウソ」なんていう増上慢(*自己満足)が、はたして真正の釈迦信仰などといえるだろうか。・・・ただ批判すれば弾圧は正義の証拠、などと「いよいよ悦びをます」のだから、相手にするのも避けられた。内部からも、進化のうごきはにぶかった。 



「我死せば、死骸をかめに入、身延山にをくれ」(註画讃)。床の間に三具足がみえる
 キリスト教でも、信者が聖書をよむことは長く禁じられ、説教者の思うがままに創作された、多種多様の神学論議がふくれあがっていった。「キリストが家にはいった」・・・この「家」とはわたしたちの「心」のことであり、・・・などというような連想ゲームははたして真正の教義といえるだろうか。いわんやそうした「解釈」が果てしなく広がり、異端の焚殺とか身内の魔女狩り論争にまで発展するのだとしたら・・・。

 日蓮の独創的解釈にも深化改良の余地はあったし、著述そのものの変遷、教派ごとの解釈の分裂、セクト間の闘諍などがその可能性をしめしている。ただ、自意識の宗教である日蓮宗にとって、真にだいじなのは法華経の解釈などではなく、けして訂正をゆるさない大聖人のドグマ(教条)、すなわち唯一無二の救世主にして万能神と崇めたてまつる祖師の面子であり、そして万能神としての「自分」なのだった。

 平信徒にむずかしい論議は理解できるはずもないから、ついつい自己矛盾を韜晦したまま、勇ましい説教で欺瞞の答えを即断し、性急に正義を演出しようとする。「日蓮は当帝の父母」「諸宗の者は、畜に同じ」「寺塔をば焼き払いて、彼等が頚を由井の浜にて切らずば、日本国必ず滅ぶべし(日蓮「開目抄」「撰時抄」)」。もちろんこれは、宗教にかぎったはなしではないのだけれど、他人の忠告をすなおに聴くくらいならダンボールの乞食になり、死んで星になることをえらぶ血走った人間に、なにかを理解させることは容易ではない。


○ 天下万民の無間の業は、謗法を帰依する国主一人の罪過なり。・・・(それゆえ国主たる者は)かの寺を一々焼き払ひ、その悪智識等をば六条瓦(*河原)に引き出だして、皆々頸を切り、・・・(日運の説法。「門徒古事」)

 門徒の情熱から、事跡が捏造された例もすくなくない。蝦夷地布教にでた日持(1250-?)については、近世ころから神話化がすすみ、北海道をこえて樺太にはいったのだとされた。このあたりは「義経島渡り」や「為朝弓張り月」の伝説とにたようなものだ。最古の言及は1521年ころ、わずか函館の地に風説があったとされるのみ。

 大正から昭和にかけては、満蒙侵略にあわせ、大陸各地に捏造の遺物が「発見」されてゆく。あやしげな伝記も、つぎつぎと作文された。馬田行啓「日蓮門下高僧列伝」(1937大東出版社)には、モンゴル皇帝をてなづけ、さらに奥地へとすすんでいく日持の雄姿が、ありもしない「証拠文献」とともに、見てきたようにえがきだされている。学術論文をよそおいながら、台湾・朝鮮などを易々と「帰伏」させた近代日本の慢心が、そこに投影されていた。こうした妄想は、けして流言蜚語などではなく、ほぼすべて【大手メディア】や、【正統派知識人】によって、さずけられてきた。



寺と教会(大町)
 江戸には「清正公」信仰なるものもあった。朝鮮征伐にさいし、「加藤清正は現地人に敬愛され、生き神としてまつられた」。そこで清正も族酋のむすこ臨海君の幼児ふたりをつれかえり、菩提寺の日蓮寺院にあずけ、日遥・日延という立派な僧にそだてたのだという。清正が「朝鮮二王子」を一時捕虜としたのは事実らしいが、それらの子供とされる二児の出自についていえば、史実かどうなのか、詳らかではない。

 加藤家改易以後も、宗門では清正を神とあがめ、御霊信仰をひろめた。熊本の本妙寺にはハンセン病患者などがあつめられ、清正公の功徳によって治るとされてきた。これもまた記録に乏しく、清正時代からそうした福祉事業を営んでいたのかどうか、はっきりしていない。近代以降は、患者の強制収用だとして一転、世間の顰蹙を買った。そういえば、キリシタン大名の小西行長も、「じゅりあ‐おたあ」とかいう朝鮮娘を養女にしたとかつたわっている。こちらはいま神津島にある朝鮮灯篭の「ようなもの」が、ご神体になっているらしい。


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