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もちださんの鎌倉リポート No.206(2016年5月17日)



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十字架への道行・1


 カトリック由比ガ浜教会はパリ外国宣教会系の礼拝堂で、由来からすれば横浜山手のカトリック教会と同系統、その教区の司教に属するもののようだ。詩人・中原中也が通ったことでも知られ、人のいいイタリア人(?)の神父さんがいらっしゃる。平時はドアのところに、どなたもご自由にお入りください、というようなことが書いてある。

 窓々にはちいさなステンドグラスが16面嵌めてある。「十字架の道行」14留(章段)と降誕、復活の場面。留(りゅう)というのはそこに立ち止まって、自分の悩みとか祈りとかをイエスの代苦に置き換え、あてはめてゆく、というようなことだ。


 ステンドグラスはもともと、重い石積みのゴシック聖堂の軽量化のためあけられた大窓を埋めるために開発されたもので、ガラス窓というよりは壁、明かり障子のようなもの。神の光りを通し、悪の侵入をはねつける。金属化合物をガラス片に焼付け着色、鉛のリム(接合枠)で組み合わせフレームに嵌めこんで固定、細部はエナメルの墨絵で描く。

 透明ガラスが普及したロココ時代には「暗い」、という理由で撤去されたものもあったという。右は別項(「彼方・1」)に掲げた山手教会の「ネポムクの聖ヨハネ」細部。聖堂を再建したチェコの建築家がなぜか自国ボヘミアの保護聖人をフューチャーしたもので、中世ガラスのまだらな色味にちかづけるため、故意に波打った型板ガラスをもちいている。これは題材となった神父ヨハネ(1393殉教)が時の王によって投げ込まれたカレル橋(プラハ)ふきんの風景を描いたところ。


 由比ガ浜教会のステンドグラスはちいさなものだから、実際にはガラスを組み合わせる細かなフレーム表現なんか要らないのだろうが、そこは「雰囲気」というもの。凝る作家なんかは古風にガラスから手作りし、ハンダで組み上げ、古色をだすため劇薬で裏地を荒らしたりもするらしい。私が真近にみたもっとも古いステンドグラスはジオット工房のもので、初期の朴訥なものとはちがうのだけれど、エナメル彩はかなり簡潔につけられていた。

 19世紀の小説家ユイスマンスは、「大伽藍」1898などで中世聖堂の全面を覆った象徴装飾の解読を試みる。彫刻の神秘学的な意味や聖人の名前、聖遺物などは本場でもかなりわからなくなっていて、すでにプロテスタントや革命軍によって破壊されたり、ロココ時代に世俗風に改装されたり、あやしげな聖遺物が迷信として捨てられ、また逆にお守りとして売られるなどして散逸してしまった部分も、かなりあるらしい。


 山手のカテドラル(右)は大きいため、左右陣の祭壇にはいくつかの聖人らのイコンや、遺骨などを納めた聖龕がならび、解説パネルもつけられている。ここは近代最初にたてられた横浜天主堂(聖心聖堂1860)の後身だから、司教の座や珍しい説教壇なんてものもあり、歴史もふるいのだ。「鎌倉初のカトリック教会」由比ガ浜の礼拝堂(下)は小さいだけに、袖壁のイコンのほか、洗礼盤のところに飾られているイエスと高山右近の額絵だけだ。

 ユスト右近(1552-1615)はイエズス会のラウレス神父(上智大学)が生前さかんに顕彰した、日本最大のキリシタン大名。殉教者として、つい最近「福者」(准聖人)に認定された。大阪の高槻にいて「くるす門」の項でのべた中川氏などとともに信長に仕え、やがて禁教でマニラに追放、客死した。

 右近にまつわる国内外の伝記はとぼしい。著作もない。研究では「こんてむつすむんぢ(ケンピス「キリストに倣いて」)」や「すぴるつある修行(ロヨラ「霊操」)」を愛読していた、とされるが、言行のわずかな風聞がそれら名著の教えに一致しているとかいった、あやふやな論証がなされているにすぎない。


 歴史的な事績からいえばザビエルの聖フランシスコや中国大陸に布教したマテオ‐リッチの足元にも及ばないし、殉教や苦行の激越さでは、世界各地の和尚や尼僧たちの伝記や浩瀚な著作などとくらべ、かなり遜色がある。ただ、列福には奇跡などの風聞よりも信仰心が重視されるという。右近は身分をすてても棄教はしなかった。

 キリシタン武将たちによる過激な仏教弾圧は、「五月抄」がつたえている。「国中の仏像を集め薪木にせよとて、日々五駄十駄づつ集め、打ち割り焼き」「住僧与寂を殺し、住吉の社を焼き・・・」。

 のちに「典礼論争」などというものが発生したように、当時の教会では現地信仰との融和がきびしく禁じられていた。異教の一切を否定しなければならなかったため、右近も仏教寺院を弾圧することでしか生きられなかった。右近の追放や行跡の抹殺には、前提となる行いがあったのだ。またその結果として、すべてのキリシタンは刑死か追放かの道をえらばされた。



キレネのシモン、主の十字架をかつぐ
 キリスト教も原始仏教とおなじく当初は転生とか身分カーストを否定していたが、それでも原罪というものを想定し、罪の告解(赦し)を重視、地獄の手前に煉獄(プルガトリオ)なるものをもうけ、審判の前に苦しむことで犯した罪を浄化し、贖えるとした。現世で苦しむことも贖いのひとつとされ、贖いということでは、世の人々の罪をかぶる代苦ということ、すなわち「キリストのまねび」も重視される。

○ 夕べにはベンテイシヤ(*Poenitentiam 悔い改め)と申して、蝿打のやうなる物に銅の針を植へて、作り貯めたる悪を口の裏にて懺悔して、背中を我とゼンスマル/\と唱へて、血を垂らすことあり・・・懺悔の間と申して、このあいだの科・悪事どもを伴天連、ヰルマン、宗体の者どもまで車座になをつて、その真ん中にて懺悔をし、詫び言をして、したたかに恥しめられて後、件のベンテイシヤをもつて伴天連が手づから打つて血を出だし、袱紗物をもつて拭い、その袖を洗はずして仏を拝むを、大行といふ。

 「退治物語」にはキリシタンが鞭のようなもので血まみれになるまで背中をたたき、苦行するさまがえがかれる。いわゆる鞭打ち苦行団のようなものが、日本にもはいってきていたらしい。



ヴェロニカ、イエスの顔を拭う
 アナトール‐フランスの「タイス」1890は、砂漠のなかで樽にはいり全裸でくらすといった苦行をみずからに課した、聖者の時代の物語。主人公の行者が淫売婦をみごと回心させるが、みずからは知らず淫夢女精に侵されて、煩悶のすえ全ての聖性を喪失し、いつしかただの狂人になってしまう。

 「スヒーダムの聖女リドヴィナ」1906にえがかれたオランダの聖女は、全身が腐乱する病におかされながら、聖体パンだけで生きた。全身の苦しみはイエスに代わるものとされ、また全世界の罪を一身に贖うものとして祈り、寝ながらにして人々に信仰をひろめ、さまざまな奇跡をおこした。この伝記を書いたユイスマンスは、また修道生活を体験してこうのべる。

「苦痛だけが人間を浄化し、霊魂を高めることができる」「彼らはこの下界に地獄を求めながら、既に天国に達している」
(ユイスマンス「出発」1895、田辺貞之助訳)


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