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もちださんの鎌倉リポート No.208(2016年5月26日)



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無名寺社紀行・1


 藤沢遊行寺のてまえ、大鋸にある三島山感応院は実朝将軍の開基1218とつたえられるが、なんどか再興され、伝説の真偽は不明ながら、いい感じに荒れている。

 鎮守の三島神社の祠は、輪蔵のような造りで恵方へ回転するようになっている。これも「頼朝が1193年、藤沢清親というものに勧請させた」とつたえられる。本社にあたる伊豆三島大社は、配流中の頼朝が信仰したことでもしられる。いつのころからか三島暦という民間暦も発行したので、社の回転もそれに関連するのかも。三島とは伊豆諸島の島々のことで「航海の神」でもあった。

 清親は弓の名人として年中行事のほか、奥州征伐や承久合戦などに参加したことが「吾妻鏡」などにみえる。


 また「諏訪縁起絵詞」によれば、清親は諏訪一族で、保元・平治の乱にも出陣したとする。これもかつて内管領として威をふるった諏訪氏が直接記したものだから、清親の生没年に多少の混乱はあるにせよ、諏訪氏ゆかりの人物という点は、みとめられていいと思う。氏神の諏訪神社も遊行寺の鎮守として、別の場所にりっぱに存在している。藤沢という地名は、この藤沢氏にゆらいするのかもしれない。

 地名としての藤沢は、四代遊行上人呑海が藤沢道場清浄光寺(遊行寺)をひらくころにようやく登場する。北条高時がもとの本山・当麻無量光寺を別人に与えてしまったため、呑海は実兄の俣野氏をたより、極楽寺という廃寺を再興し「本山」を移した。そのさい北条邸から庫裏の真光院に赤い門を頂戴した。以来「赤門」とよばれるようになり、現在はいくつかの子院を合併して「真徳寺」と名乗っている。さて、北条邸の門はあかかったのだろうか。


 遊行寺橋のまえには大正震災まで、江ノ島明神の外鳥居があった。ここから旧東海道は江の島道にわかれ、杉山検校による道しるべがおかれた。写真は近年「復興」したという江ノ島大師の仁王像。ただ、じっさいに昔そんな寺があったわけではなく、江島神社とも無関係、鹿児島あたりの仏教系新興教団の支部らしい。

 かつての江の島は神仏習合の島だった。もちろんインドでも中国でも事情は同じで、そもそも大乗仏教とは「大きな乗合馬車(オムニバス)」のようなものだから、ヒンドゥ教やらマニ教、道教などがいまも分かち難くむすびついている。むしろ、「神仏分離」を強行した明治日本だけが、異様だったのかもしれない。「多神教は程度の低い文化」、などとする欧米人の説にひたすら恐縮した文化人。それでいて、当のキリスト教にも、日本人はけして寛容ではなかった。さいきんもまた、「多神教は和を重んじる日本人ならではの智恵、独自性」だなどと、トンチンカンなことを、懲りもせずに唱え始めている。


 こんなのあったっけ、という神社は旧市内にもすくなくない。ちいさな祠はガイドブックはもちろん、グーグル地図を全開にしてもでてこないばあいがある。

 大蔵弁財天は杉本観音の境内にある。鎌足稲荷は浄妙寺に、大太刀稲荷は長谷新宿の御嶽神社内にあるが御嶽神社じたいがでていない地図もある。お稲荷さんのようなものは、個人持ちのものもおおいし、やぐらの中に石碑だけがあったりと、その歴史価値はまちまちだ。変わったなまえがついていたり、いくらか由緒があるものなんかは案内板がほしい気もするが、多少は未知のぶぶんがあるほうが、「床しさ(知りたさ)」をかきたてるのかも。何事のおはしますをは知らねども・・・と西行もいっているのだから。


 朝比奈切り通しをでて、開けたあたり。民家の裏山のあちこちに祠や小堂がみえる。古い民家の私有地にこういう稲荷なんかがあるのは、田舎ではごくあたりまえの光景。ただ首都圏では「宅地化調整地域」とか、「農業専用地」などに指定された、いわばむりやり都市化からきりはなされた、タイムカプセルのようなばしょなのだ。

 場所柄、斜面にやぐらなんかがあるところも。名もなき祠や庵なんかが、中世にもいくつか点在していたことを示すのかもしれない。子院、塔頭より以下のものは「寮」とか「庵室」などとよばれる。屋敷墓に付属する持仏堂や鎮守といった、村持ち、もしくは個人所有のものもあった。正式な僧ではなく、堂守のようなものがすみついたものもあったろう。

 ちいさな社の多くは「神社整理令」でかたづけられ、乞食寺のたぐいは「廃仏運動」で朽ち果て、廃絶していった。


 八幡宮をめぐる土手の左右には、築山稲荷とか紅葉稲荷とかいうふたつの鎮守のほこらがある。築山とは八幡宮の池を掘った土を積んだという謂いだが、ようするに土塁のこと。築山稲荷のうしろの土手には、近代になって「牡丹園」が整備された。いっぽう紅葉稲荷のある西側は、ながく近代美術館の庭になっていたこともあり、平家池とともにやや荒廃した印象がある。

 長安や金代北京城などの外壁は「築地」といって黄土をかためてつくってあったが、日本では適した土がすくなく、おもに土塁として発展したようだ。もちろん柱をいれ瓦を積み、化粧土をきれいに塗った築地塀もあったけれど、平安貴族の記録のなかには「築地のくずれ」だの「築地の上に花の種をまいた」なんていう風流がえがかれる。園池に面した斜面は「野末」とよばれ、汀の「州浜」につうずる築山の一部にもなり、庭と借景を貼りあわせる糊代(のりしろ)のやくわりをはたした。


 江の電の名所・鎌倉高校前駅のホームにくいこむように建ちならぶ墓石団は、地元の屋敷墓をまとめた共同墓地のようにもみえるが、「海が見える丘霊園」といっていまや宗派不問の「霊園」らしい。

 鎌倉のモダン寺院の代表的なものが、ちかくにあるこのお寺・顕証寺。とくに歴史はなく、日扇上人こと長松清風(1817-1890)という日蓮僧がひらいた本門佛立宗にぞくするらしい。ここも海に面した境内墓苑が人気らしく、墓参り客用「おしゃれハウス」とかも整備されているという。

 日蓮系の新興寺院では、扇谷の護国寺も遊牧民のゲルのような、モダンな建物。ここは富士山ろくに一千坊の一大楽土をつくろうとした日興上人なる者の系統なのだが、布教がしつこいので時間のないかたや、断わる意思の弱い方はあまり近寄らないほうがいいかもしれない。日興は六老僧のひとりで、愛弟子であることを誇ったが、日蓮死後の内訌から他の五老僧を激しくののしって身延山を追われ、南条時光(上野殿)の庇護のもと富士大石寺をひらいた。鎌倉とのゆかりはともかく、宗門史にはその名がしられている。


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