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もちださんの鎌倉リポート No.209(2016年5月30日)



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無名寺社紀行・2


 金沢八景の龍華寺は洲崎神社の神宮寺という位置をしめているが、縁起によれば光徳寺という寺に六浦浄願寺(瀬戸神社の神宮寺)を合併した中興寺院1499らしい。浄願寺の一部は上行寺東遺跡と推定され、その本体は駅裏の能仁寺跡ふきんともいわれるが、よくわかっていない。天平時代の乾漆仏や鎌倉時代の古鐘、室町ころの荘厳具なんかは、この前身寺院からつたわったものかもしれない。

 開山融弁の師、印融の伝法血脈は「神奈川デジタル‐アーカイブ」から閲覧できるが、寛平法皇からつづく仁和寺西院流には甘縄無量寿院(廃寺)の覚仁の名がみえる。このひとは称名寺につたわる仏舎利を奈良から受け取った人物らしい。ほかにも、「元瑜方」として佐々目遺身院(廃寺)の法流もつたえているのが注意される。これは執権経時の子・鶴岡別当頼助(1246-1296)が仁和寺に留学してつたえた、鎌倉きっての密教血脈だったもの。



光伝寺
 かつて六浦の湊は上行寺ふきんにあり、湾はさらに光伝寺あたりまで入り込んでいたという。幕末ころには塩田となっていた。この寺は天正ころ(戦国末)の創建とされるがビャクシンの木(写真右)もあり、増慶の銘のある地蔵1294などの古仏もつたえる。ここの前身にもなんらかの古寺か、その坊があったようだ。

 さらに朝比奈よりの南山腹に、宝樹院という寺がみえる。そのあたりに公方持氏の祈願所とされる常福寺という廃寺があり、その旧仏で本尊の阿弥陀三尊胎内銘1147などから、平安時代からの古寺であったと推定された。奥のほうに古寺があるということは、ふるくはそれだけ湾が深かったのだろう。ちなみに宝樹院は三艘から移転した寺らしく、あの小泉さんの檀家寺であるという。先祖の又次郎さん(のち横須賀市長・いれずみ大臣)はこのあたりで生まれた。


 また六浦千光寺(専光寺)には金沢猫をうめた猫塚があったが、今は都市化によって寺ごと山側(東朝比奈)に移転し、その伝説もうやむやになりつつある。

 武蔵と相模の堺にあった鼻欠け地蔵は、もはや影のようになりはてて、コンクリート擁壁の法面のはずれに、わずかに塗り残した岩盤にすぎない。ここは金沢道が六浦から朝比奈にのぼるとちゅうにあり、地蔵右の曲がり角からつづく小道をたどると、釜利谷にいたる。釜利谷にももっと状態のひどい、白山磨崖仏というのがのこって(?)いる。

 かつて八景の入り海の北西にあたっていたのが釜利谷で、六浦・金沢を避けてとおるとすれば、この巷(ちまた)を迂回するほかなかった。金沢の入り海をせきとめて瀬戸橋がきずかれる以前は、称名寺の寺前の湊もさかえていたとおもわれ、金沢北条氏も釜利谷に本拠をおいていたらしい。六浦が占拠されたり瀬戸橋がおちたりしたばあいには、とうぜんこの岩の大仏のみちしるべが役に立つわけだ。


 上行寺といえば同名寺院が鎌倉大町の安養院前にある。学生運動の立て看のような独自の字体の木札が、むかしはもっとあったような記憶があるが、ここのみどころは女(おんな)神の数々。

 他宗派を完全否定する日蓮はいっぽうで、ひつようなものは何でも法華経に付会して自由奔放にとりいれた。比叡山にならい、全国の有力神社を三十番神として無断で勧請し、法華経の家来にいちづけ、「すでにもとの社を去った」などと披露して怒られたりもした。日蓮宗ではやがて、神がかりや託宣などをなりわいとし、いやしい業、低俗な迷信とされた山伏やイタコのようなものまで掬いとってきた。そればかりか、師僧じたいも神がかりをましてゆき、何度殺しても死なない「なべ冠日親」のような超能力伝説さえ、生み出していった。

 七面大明神は身延山ちかくの七面山の神様らしいが、これも法華経ゆかりの吉祥天・弁財天が本地であるとした。聖人に帰依したうら若き美女がこの山の神様だった、という。七面山は修験の山だったとされ、もともとは飛騨の両面宿儺のような怪物、もしくはヤマタノヲロチのようなものだったのかもしれない。


 時宗一向派の向福寺や、日蓮宗啓運寺の前身がどんな寺だったかはよくわからない。名越かいわいには能成寺、目足寺、長福寺、長善寺、竹鼻清凉寺、保寿寺、新善光寺、善導寺、報恩寺、東陽寺、蓮花寺、能蔵寺などの古刹があったといわれ、後身が不明なものも多い。改宗で分裂した寺や、辻薬師堂のように孤立してしまった堂もあったはず。

 もともと檀家もすくなかったこの手の堂は明治いらい画家や作家に貸し出されたり、寺小屋にりようされたりもしたようだ。一向派というのは、一遍と混同された同時代の僧・一向俊聖(1239-1287)の派閥だか、のちに時宗や浄土宗に吸収されたため、独自宗派としての消長はよくわからなくなってしまった。

 啓運寺は「註画讃」や「啓運抄」55巻を著した戦国時代の日蓮学僧・一如房の日澄(1441-1510)の創建。いまの長勝寺の前身がいったん京都本圀寺にうつり荒廃したさい、跡地にのこった「妙法寺」という庵の名義だけが、大蔵など各地を点々としてこの寺になった。だが荒廃はぬぐえず、由緒ある寺号を惜しみ、今の妙法寺と寺号のとりかえっこをした、そんな伝説もあるらしい。大巧寺の開山とされる大乗坊の日澄(1239-1326)とは、別人。


 北鎌倉駅の上、山ノ内の鎮守八雲神社のかたわらに高くなったところがあり、社殿はないが国常立尊をまつる霊碑がたっている。これはたぶん摩利支天を祭った御嶽信仰のなごり。崖際に清明石があるが、子供があそぶと危険なため、いちおう立ち入り禁止の立て札がある。

 「風土記稿」などには、八雲神社は旧称の牛頭天王社としてみえている。本社はもちろん京都の八坂神社(旧称・祇園感神院)。したがって旧祭神は牛頭天王(武塔天神・疫神)および波梨采女(西御座・少将井の宮)、八王子(八将神・八大竜王)。これらはもともとインドや唐宋の民俗信仰にゆらいし、仏教とともに伝来したが、「簠簋(ほき)内伝」など陰陽道ともかかわりがふかかった。陰陽道とは忍者が九字を切ってドロン、というあれ。山伏にもふかく浸透していたから、摩利支天の法などともなじみが深かったのだろう。



@5.29
 鎌倉はどぶ川が多く、おもいがけないところで蛍にであうことも。八幡宮では放生会のかわりに蛍を放流しているし、一部の溝川では保護活動もおこなわれている。中央公園などの保護緑地からもとんでくるのかもしれない。手持ちのデジカメではほとんど写すことができないが、県内屈指の名所・四季の森公園ではもう、こんなかんじで顔のちかくにまで、ふわふわ飛んでくる(これは合成)。

 今年はたぶんピークがはやいようだ。飛ぶ時間帯は日没から八時半くらい。真っ暗な木の下陰をこのむらしい。


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