トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第21号 


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もちださんの鎌倉リポート No.21(2008年2月11日)



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「神風」は吹いたか?・2



元使塚。江ノ電江ノ島駅ちかくの常立寺にあり、五人塚ともいう。
 『高麗史』1093年の条に、高麗軍が「海賊船」をおそって水銀や硫黄、真珠、刀剣などの大量の貨物と数名の日中の乗組員を奴隷として分捕ったなどとほこらかに記されている。なんのことはない。近くを通った日宋交易の民間商船にいんねんをつけて、国家ぐるみの強盗をはたらいたのである。その積荷はあきらかに日本が中国に向けた主力商品であったからだ。

 執拗な隣国の蛮行に抗議した対馬島民はかえって現地で捕らえられ、虐殺されてしまう。いきりたつ島民に同情し、嘉禄二年1226、松浦党(佐賀県沿岸の海民)らが加勢を買って出た。藤原定家は『明月記』で「戦争になる」「世も末だ」と島民らの行動を非難している。都の貴族にとって、島民感情など「友好の障害物」でしかなく、ただ事なかれを祈るだけだったらしい。日本へ向かっていた宋船がさっそく高麗に襲われ焼き討ちされたという情報もあった【注1】。

 ところが翌三年1227、鎮西奉行少弐(武藤)資頼は「日本が悪うございました」と一方的に宣言し、高麗国使に命じられるがまま対馬島民90人を勝手にとらえ、目の前で首を斬ってごまをする事件をおこした。ことを丸く収めて自分の手柄にしよう、そして中韓にじぶんの顔を売ろう、とおもったのだろう。万世一系、一部の日本人は必ずこういうことをやる。

 さすがに資頼の独断には「我が朝の恥」「高麗の牒状、無礼」という朝野の激しい非難がまきおこった。あちらではまったく反省の色もなく、資頼の「謝罪」に勇気付けられたのか1244年、盧孝貞は漂着した「日本商船」を襲って綾絹、銀珠など大量の貨物を奪った。韓国の学者は、これも倭寇の断罪【注2】だなどと、いまだ独自の理論を展開している。・・・こちらがさきにお辞儀をすれば相手も必ず返してくれる、などというあさはかな期待は、しょせんは外交音痴の島国の、ひとりよがりな思い込みにすぎなかった。無策と友好をはきちがえ、敵をとことんおだてあげ、精力的に励まし続けていることにも気づかない。倭寇などという不名誉な呼称を定着させたのは、こんな「日本人」たちのあきれた努力の結晶でもある。


五輪塔には在日モンゴル人らによって「英雄に敬意を示す」民族衣装のハダクが捧げられている。



掃蕩のため石築地から鷹島にむかう武士。左上の人物は有力御家人の菊地武房とされる。「竹崎絵巻(摸本)」より。
 北条時宗が龍ノ口で元使を斬り、後戻りできない強硬姿勢を鮮明にしたのは、おそらくこのような、敵国を手引きして得意がる、まいど出没してやまない特定のやからの妄動をあらかじめ断つためなのだろう。時宗はつねづね禅語をひいて「莫妄想(思い込みはすてろ)」を口にしたという。資頼のまご少弐景資は、両度の元寇討伐軍現地責任者に任じられ、役目を忠実に果たすよう、厳命された。

 自称ハト派有力者たちの尻は重く、相手の言い分だけをうやうやしく聞いて譲歩をかさねるだけでもう、悦に入っていた。自覚に至るまでに長い長い年月を要したので、けっきょくは敵にあなどられ、まったく空気も読めぬままむざむざ終局を招きよせ、多くの無辜の血が流れていった。少弐は文永の役でも水城まで退却しようとしたし、弘安では壱岐で父や兄が痛手を負っているさなか石築地のうえにすわって下知していただけだ。元の副将軍・劉復享をその手で討ったなどと手柄を偽造する景資の末路は、まさにその兄に殺されて終わるのだ(霜月騒動)。

 最前線で働いたのは戦場ちかくにすむ名もない御家人・非御家人たちであり、ことにあの対馬島民や松浦党だった。

 1374年、まだこりもせず日本侵略の準備にあけくれていた高麗・合浦の兵舎および軍船、兵士5000が「倭寇」によって全焼し、現地官の金メは惨敗の責任を問われて支解となった【注3】。明の洪武と日本侵略を謀議して大量の火薬を集めていたところだったので、よく燃えたのだろう。日本側の記録には、この功績はなにひとつ伝えられていない。やったのはたぶん、守ってくれる国も、主君もなく、ながいあいだ民族虐殺(ホロコースト)の被害を甘んじてうけつづけてきた対馬や松浦の、ほんとうのパルチザン(義兵)だったにちがいない。


蒙古はベトナム〔1284〜87〕でもインドネシア〔1294〕でも惨敗した。元軍10万が全滅した鷹島の戦いをえがいた部分。



常立寺。夕日を映す雲が血のようにかがやいていた。
1389年の韓寇にひきつづき、1419年、李氏朝鮮が対馬を侵略し拉致やホロコーストを行なったとき、言い訳にやってきた朝鮮国使に「今度やったら海を渡って必ずぶち殺す」と脅したのは、あの少弐だった。この応永の外寇をみずから企画、先頭に立って得意げに指揮していた朝鮮王デジョング(李芳遠)・セジョング(陶※)親子は、これを聞いてようやくふるえ上がったと「世宗実録」はつたえている【注4】。少弐が対馬島民をその手でころしてから、193年が過ぎようとしていた。

 一部の研究者は、なぜ日本が蒙古から高麗を助けなかったのか、といっているようだが、時代背景をまったく理解していないらしい。日本人を助けない者がどうして敵を助けられるのか。時宗はつねづね「莫妄想(思い込みはすてろ)」を口にした。だが、・・・相手の落ち度はきれいさっぱり消してやり、身内の死を笑ってまで相手に卑しく媚を売る。そうしなければ「まごころ」はけして異国に伝わらない。相手側の要求をのまなければ、かならず戦争になるにきまっている。・・・いまだそんな島国の、根も葉もない欺瞞の因習をつかんではなさず、思考停止しているひとびとは、少なくない。


【注1】少弐事件など日韓関係の資料の抜書きは「鶏林拾葉(塙保己一編)」が便利。国会図書館デジタルライブラリー。応永の韓寇については岩波文庫「老松堂日本行録」に附載資料がある。「高麗史」の抄録は同文庫・武田幸男編「高麗史日本伝」。
【注2】倭寇について「高麗史」は1350年に「倭寇侵入のはじめ」と明記しており、それ以前の記録はすべて商船などを高麗がわから襲ったさいの呼称とみられる。また禾尺の反乱など自国民によるものにもかってに倭寇を使用している。
【注3】支解はバラバラにした死体を巡回展示する朝鮮半島の伝統刑。
【注4】李陶※(1397-1450)の名は、正確には示偏(外字)。


江ノ島駅付近。


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