トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第210号 


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もちださんの鎌倉リポート No.210(2016年6月4日)



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無名寺社紀行・3


 赤い鳥居は稲荷のしるし。とある開発地で、まるはだかにされた山に立ち腐れの無数の鳥居が並んでいたのをおもいだす。業者は社殿を御影石につくりかえ、きちんと参道もつくったけれど、鳥居が帰ってくることはなかった。もうそこは、霊地ではなくなってしまったから。

 大太刀稲荷の鳥居のわきは稲瀬川保育園。たまたま平日にたずねたら、ちびっ子たちのさわぐ声がひびく。都会では、こんな音にまで神経をとがらせ、いちいち苦情をいう輩がいるという。ひるまからうろうろしている老人の神経は、よほど荒廃しているらしい。

 大太刀とは「おおたち(大館)」のことで、十一人塚の大館宗氏にかんけいがあるという。ここは700年まえとかわらず、波の音、風のざわめきがわたってくる。


 どうしても鎌倉に看板のようなものがほしかったのだろう。雪ノ下にある道元顕彰碑は、名利をさけて鎌倉にとどまらなかった禅師の生きざまに疑問をなげかける。時頼の要請をうけて建長寺の開山になってさえいれば、宗門ももっとさかえたのに・・・。

 碑面には「ひたすら打坐(すわれ)」と彫られている。京・鎌倉でさかえた臨済宗は帝王禅(エリート仏教)などといって、判じ物ふうの高踏狷介な問答(公案)、貴族的な詩歌、政治的な文書の作成で外交問題などにかかわった。道元式曹洞宗ではそういうものを一切捨てて、坐禅と、初源仏教としての素朴な「民間信仰」にたちかえる道をえらんだ。

 臨済寺院はやがてパトロンをうしない、よくわからない観光寺院になっていった。永平寺(福井)は田舎にあって、むしろよかったんだと思う。


 川崎市にある白鳳の古刹・影向寺。これはその塔頭であった能満寺という寺で、影向寺のたつ台地の中腹、急坂の真下にある。天台寺院なので、庭には頭巾をかぶった伝教大師最澄の像が坐禅している。頭巾が最澄の、しるし。

 ここには仏師朝祐作の虚空蔵菩薩1390がつたわっている。「明徳元年五月十三日・伯耆●●朝祐(花押)」。朝祐といえば覚園寺の日光月光菩薩・伽藍神・十二神将像(1401〜1422作)などをつくった人で、覚園寺山内の「掘り出し地蔵窟」から二基の五輪塔がみつかったあの仏師(1426没)。地輪には「祐阿弥陀仏 逆修四十九 応永卅三年八月十五日」「正祐」とあり、位牌から「祐阿弥陀仏」は朝祐その人、「正祐」は父の名と推測された。

 墓がみつかる仏師などめずらしいし、おなじ天台系の覚園寺(四宗兼学)に大仏師法橋・伯耆法眼などとして栄転したこともうかがえ、興味深い。ただ、秘仏あつかいでまれにしか開帳しないのが残念。


 これはレポ160-161で触れた川崎市高津区千年、岩川不動の全景。ちょろちょろと落ちる湧き水のほとりに、御滝不動をまつることは全国各地にみられる。やがてわき水が涸れたり、崖面が崩壊するということも、すくなくなかった。ここでは幕末に、すでに不動像をうしなっていた。擁壁ブロックのむこうは、すでに何度も崩壊しているのだろう。

 それにしても板碑をまつる祠だけが、あたかも不動そのもののように継続してきたというのはめずらしい。鎌倉五所神社の倶利伽羅板碑のように、阿弥陀信仰が大日如来を経由して不動明王の種子板碑に変容しているならともかく、ここのはただ「キリーク(阿弥陀)」がきざまれているだけなのだ。

(※ついでながら、鰐口について。今回写真を拡大して見直したところ、刻銘の奉納者は「民兵衛」ではなくて「武兵衛」でした。刻銘は光の加減でよく写らないこともあるので、やはり現地できちんと見ておかないと・・・反省)。


 さて、横浜市港北区高田の天台寺院・興禅寺。桃井直常伝説がのこる寺で、明治時代からの由緒をもつ独自の「雅楽会」があることでしられている。寺の小僧・為蔵なるものが東京からきた楽人に芸をならったのがはじまりなのだとか。

 伝承では桃井直常も音曲にふかいかかわりがあり、幸若舞の初代幸若太夫は桃井幸若丸直詮、すなわち直常の孫であるとされる。「人間五十年・・・」でしられる幸若舞は、早歌などの既存の謡い物ではなく、「舞の本」とよばれる物語台本をたくみにうたいながら、鼓などの伴奏で舞うもので、もともとは放下、舞々などとよばれた男白拍子による、祝言芸の系統をひくようだ。千秋万歳とか、三番叟にちかい。

 太夫の位をえて宮中で芸を披露したことから、やがて格式高い「武家の式楽」として発展。明治以降は武家社会とともに衰退し、いまは地方に、しろうと芸としてのこるのみだ。「人間五十年・・・」は、「敦盛」という曲の一節。


 こちらはレポ79「鐘について」でふれた中依知浅間神社。鎌倉大楽寺の旧鐘は本殿のみぎにみえる鐘楼に、埃まみれで吊ってある。神仏習合時代には、裏手にある安龍寺という別当寺とひとつだったのだろうが、雨乞い神事にもちいた鐘は神社のほうにのこった。

 伝承ではもともと霊仏が先にあり、鎌倉時代の宝治ころ夏に雪が降るような霊験があったから、富士浅間の垂迹であるとして神社としてまつられたとしている。

 境内林はひっそりとして清清しい。ひだりにちっちゃい児童館があるが、晴れた日は境内でもじゅうぶん遊ぶことが出来るだろうし、へんな神主に追っ払われることもない、古きよき昭和の神社、といったふぜいだ。台地の上は蔦屋書店があり、バス通りがかよい、幹線道路に沿ってマンション群など、あたらしい町並みがひらけてきている。さいきん圏央道の出入り口までできた。やがて環境も、劇的にかわってしまうのかもしれない。


 同じく「鐘について」でふれた上瀬谷の妙光寺。もとは天台寺院で、通りすがりの日蓮が改宗させたと云々。ありふれた伝承にはちがいないが、門前の通りを鎌倉街道といっている。のち、境川の対岸、大和市役所のある下鶴間のまちはずれに森林公園になっている岡があり、そこを城とした殿様(山田伊賀入道)が質流れの鐘(1325)を買ってここに寄進した(追刻銘)。ひだりにみえているのが鐘撞き堂。

 旧鎌倉郡上瀬谷は畑作地帯で、ながく米軍瀬谷通信隊基地がおかれたため過度の開発をまぬかれてきた。かつては米軍恒例の交流盆踊り大会などがここでも催された。米兵家族手作りのケーキは子供の口にもクソ甘かった。当時中学生の兄は米兵を水槽に突き落とす「的当てゲーム」にむちゅうになり、景品にハーシーズの板チョコをもらっていた。

 そういえばあの山口百恵さんもおさないころ瀬谷に住んだとか。さいきんでは人気タレントのダレノガレさんなんかが知られる。知らない町でも、ちょっとしらべればなんとなく親しみがわくかも。


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