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もちださんの鎌倉リポート No.211(2016年6月10日)



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無名寺社紀行・4


 町田市矢部の箭幹(やがら)八幡宮。高校野球の桜美林学園のちかくにある。推古天皇のころの創建とか、源義家が祈願したとか、小山田義重なるものが宮司となり、戦国時代には小山田氏が氏神としたなどとつたえるが、たしかなことは不明。社名は、鎌倉の悪源太義平(頼朝の兄)が秩父平氏と結んだおじ・木曽義賢(義仲の父)と合戦したさい、神が矢を援助したとか、それで仲良く引き分けになって、無用の矢柄を屋根に葺いたからとかいう。

 周辺に木曽町という地名があり、そこは木曽義高が滞在したともつたえられる。伝説があいまいなのは、新田の鎌倉攻めいらいたびたび戦乱にまきこまれ、古文書類が失われたためだろう。いまはただ、桜美林のグラウンドから、練習試合のアナウンスのようなものが、きこえてくるばかりだ。


 小山田の大泉寺の門前にはながい参道がのこる。鎌倉で参道といえば八幡宮と荏柄天神のものがのこるのみだ。あるていど田舎の寺だと、ふるい並木や馬場の埒のような両側の土手がまだよくのこっていて、さながら鶴岡八幡の参道・段葛の旧状をおもわせる。段葛はさいきんアスファルトで舗装され、金属ポールに大量の日章旗なんかをぶらさげて、ますます古写真とはちがったものになってしまった。

 ここの本堂は長くわらぶきだったものが、コンクリートに造りかえられた。風情は大きくそこなわれたが、石碑から外参道、総門をへて道の左右に散在する古い観音堂や鎮守、四天門などを見つつ延々と歩むのはわるくない。区画整理で参道を切られてしまう寺もおおいので、こういうものも文化財としてながく後世につたえるべきだろう。


 「太平記」で悪名たかい淵野辺正博の創建した龍像寺は、淵野辺館跡の南西、古淵にある。ここでは淵野辺は悪い龍(大蛇)を退治し3つに切断した村の英雄とつたえられ、替え玉をもちいて大塔宮を奥州に逃がしたともいう。ちかくには西南、原当麻にいたる当麻道や東北、鎌倉街道に接続する奥州道の辻があり、交通の要所ということはたしかなようだ。

 竜骨のいちぶ、淵野辺の鏃(矢じり)、墓と称する板碑は本堂に収めてあるらしい。龍というのは、近くを流れる境川の氾濫を象徴している。寺は集落よりも川道にちかい、段丘の下に位置しており、おそらくは龍神の名の下に止雨を祈願する寺だったのではなかろうか。神話においては直喩と暗喩が等価である古代の言語でかたられる。「ウワバミのようなやつ」がそのまま「好色な大蛇」になってしまったり、「龍のごとく暴れまわる川」がそのまま「暴れ龍」になったり。ケンタウルスのような怪獣も、たんなる翻訳の失敗、「言語の病」にすぎないという。

 龍をまつる寺は古代の奈良にも多数、つくられていた。ヤマタノヲロチのような生贄神話は、中世におよんでもなお、アジアの各地でくりかえされていた。


 鎌倉市中にも地味寺がおおい。「寝たきり桜のとおせんぼ」がある、この大町の教恩寺も、裸地蔵のある延命寺も、一発芸のようなもので、ごくごく地味だ。

 教恩寺は時衆の拾い寺で、そのゆらいは定かでなく、善昌寺という古寺の故地であるともいう。一説に光明寺内「北の山ぎは」にあった後北条氏の子院がじゃまになってここに移転し、それも退転して時衆寺院になったとか。むかし別願寺の和尚が「時宗と書くとトキムネとまちがえるひとがいる」とぼやいておられたのを、ふとおもいだす。「なんだ、トキムネじゃないのか」と、ばかにしたような捨て台詞をのこして去ってゆく観光客もおおかったのだろう。

 本尊の阿弥陀仏には、囚人として下ってきた平重衡と千手前の伝説がついてきているが、この本尊自体、どこから来たのかは不明。奈良の大仏を焼いたこの極悪人が往生をたずねたところ、阿弥陀仏が、うん、とうなづいた。いまではそんな「奇跡」なんぞ信じるひともいないのかも。


 玉縄城に次ぐ小田原後北条氏の支城、小机城のちかくにあるのが、城代をつとめた笠原氏の氏寺・雲松院。左下よりにみえる印塔群が歴代。後北条氏が小机城を修築した1525年ころの創建らしい。もとは神大寺(地名)というところにあったともいうが、そこはまだ扇谷氏との戦場だった。あるいは両開山・季雲永岳ならびに天叟順哮ゆかりの、焼失した先行寺院が、そのあたりにあったのかもしれない。

 正式な城主「北条三郎」はのち謙信の養子となって死んだ景虎とされてきたが、別人ともいう。一門の長老・北条幻庵の猶子として小机衆をまかされた、とはいえ記録も少なく、事跡も不明。実質的にこの地に土着したのは笠原氏で、一族の関連寺院も多数分布。法昌寺、東観寺、龍松院。近隣には浮世絵師・広重ゆかりの寺(泉谷寺)もある。改易後はちかくの台という村をゆるされ、旗本として幕府に仕えた。そこには弘聖寺。

 先祖は早雲を初期からたすけた譜代の臣である一方、土着こそが「笠原の極み」だったのだ。一族には正使として信長の安土城に赴いた評定衆の康明や、裏切り者としてしられる政尭(ただし養子)のような者もでた。


 東京世田谷の下町、三軒茶屋周辺の神社のお祭りは、人口密集地だけにとほうもなくにぎわうが、ふだんはまったくガランとしている。そのひとつ、駒留八幡は奥州下向の頼朝の駒を留めたとされ、古地名「馬引き沢」のゆらいとなった。もっとも駒牽きは神馬の奉納もいみするので、このへんに牧があった名残りではないだろうか(レポ92参照)。

 神体は「徳治参年(戊申)十月廿三日沙弥見一○/左近太郎入道成願」の銘のある経筒1308といわれ、江戸期に掘り出されたとつたえる。八幡の宝前に法華経六部を書写しておさめ、また千部を読誦して現世安穏後生善処をねがった旨がきざまれていた。成願の俗名は不明で、執権北条氏であると伝えるが、同定できる人物はわかっていない。のちに世田谷城主吉良治家(足利一門)が近辺を鶴岡八幡宮に寄進している1376ので、この地がもともと鎌倉北条氏の手で社領に寄進され、同社を分祀していた可能性もある。


 戦国後期、世田谷御所吉良頼康の側室・常盤が策略にかかって自害した。常盤は実家の奥沢の城へ身の潔白をうったえた手紙を書き、鷺の足にむすんで放した。それをたまたま射落とした頼康がことの真実を知る。同神社は死産したその子をまつったともいわれ、常盤の霊は摂社・厳島の祠(常盤弁天)にいわわれたとも。

 鷺が死んだその地には鷺草が咲くようになった。東京世田谷かいわいの中世伝説の白眉であり、区の花としてサブ‐マークにもなっている。現在弁天池に水はないが、奥沢城の跡に建てられた九品仏では鷺草園をつくっている。

 吉良氏は鎌倉いぜんにわかれた、足利源氏のふるい分家であり、おなじ分家でも今川などより上の家格、先祖は庶子ではあるが長子であったから、本筋であるとも主張する。鎌倉時代には霜月騒動に連座して敗れ、観応の擾乱では敗軍・直義党についた。戦国大名・後北条氏の台頭は、将軍の骨肉の敵・堀越御所を討ったことからはじまる。古河公方家とは対立したが、京の将軍家を重んじるエクスキューズとして、関東管領の名目をかかげ、吉良御所を保護するようになった。


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