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もちださんの鎌倉リポート No.212(2016年6月16日)



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無名寺社紀行・5


 中世遺跡をたずねまわると、副産物としてしらない寺社にであえる。ここのお寺は山門が長屋門でクーラーの室外機がおもて向きにあり、わざわざ通路を物置にしている。石楠花がきれいな寺なのに、なんともずぼらな仁王様?だ。 

 式内社杉山明神の本社説がある西八朔杉山神社の元別当寺・極楽寺(横浜市緑区)。ここは和名抄にでる武蔵国都筑郡の針折郷にあてられ、「八朔とは馬柵で古代の官営牧の跡か」という説もある。「福徳」という私年号をきざんだ板碑がでた、という資料もあるが、目的のものはこの近所にはみつからなかった。私年号とは室町時代、地方の寺などが勝手に使っていた年号のこと。政治的・宗教的理由はいまだ解明されておらず、正式な年号を発布した皇室(北朝・幕府方)の権威を否定していたのか、どうなのか、定かでない。


 式内社、というのは「延喜式」の神名帳にのり、10世紀以前から国幣にあずかっていたことが証明される、古い神社のこと。後世にすたれたものもあれば、村ごとに多くの分社がさかえ、本社もしくは本社に相当する神籬(ひもろぎ)を有した霊地の存在が、すつかり忘れ去られてしまっているものもすくなくない。

 なかには適当なお稲荷さんのたぐいを「故地」と称して、近世以降に復興したようなまゆつばものもある。本家争いをしているくらいのほうが、むしろ罪がないのだ。川崎の橘樹郡衙跡ちかくにあたる橘樹神社はヤマトタケル神話と習合しており、それも古代の神話というよりは、山犬にみちびかれ三峰神社をひらいたという、修験の神様としてのタケルだった。ここにも近世までの別当寺だったものが隣接している。

 山岡鉄舟(1836-1888)が自筆の碑で「日本武の松」「橘比免之命神廟」をたたえているから、王政復古がさけばれた明治のはじめころ、さかんに顕彰されたようだ。



戦没者慰霊祭
 こちらは相模一ノ宮・寒川神社の摂社、宮山神社。池にかこまれた同社は、金毘羅や八幡など近在の鎮守・八柱の客神を合祀しており、三峰神社はここにもはいっている。いわゆる神社整理令によるもので、もともとは琴平社があった場所だという。

 中世の神社にはおびただしい摂社・末社があり、伊勢神宮をはじめ八坂神社、北野天神といった由緒ある古社では、それらをめぐるのもミステリアスなたのしみのひとつだ。整理をしてしまえば管理は楽になるのだろうが、地域の信仰は失われ、変質してしまう。庶民は神事からきりはなされ、過去は迷信の名のもとに否定される。合理主義といえばそれまでだが、神仏をうしなった近代人が次に信じたものとは、なんだったのか。


 柿生の王禅寺の「薬師如来堂」も、案内板によれば大正時代に廃寺となった寺家町東円寺をうつしたものという。「風土記稿」には天正ころの中興とするが、それ以前のことは開基・領主ともに不明らしい。古文書に「鴨志田寺家分」とあり、鴨志田郷の一部が王禅寺の所当になっていたようだ。

 王禅寺は中世に小山田庄になったり、近代に川崎市になったりしているが、もともとはともに都筑郡(横浜市北部)だったわけで、寺家・鴨志田とはつながりがあった。「柿生の柿」「神仏のたどった道」などの項でふれたように、王禅寺は称名寺の法脈をひき、周辺はふるくから称名寺系の布教圏であったらしい。


 これは池子の森の遠望。夕日に照っているのは富士山。池子といえば米軍基地なのだけれど、考古・地質調査などはおこなわれていて、申し込めば資料館のようなものに案内してもらえる。ただし「やぐら」などの中世遺跡はあまりなかったようだ。

 レポ66「山岳仏教について1」にちょっと触れたけれど、逗子高校のテニスコートなどがあるグラウンド奥にはかつて、実朝の冥福をいのり母政子が運慶に本尊をきざませた阿弥陀堂があったという。それは「三浦七阿弥陀」の筆頭で、二番目が浄楽寺(芦名)、無量寺(長坂)、西来寺(不入斗)、光念寺(三崎)、往生院(津久井)、正観寺(廃寺・根岸)などとつづく。

 阿弥陀堂はのち、鎌倉東勝寺の後身をとなえる近在の寺・東昌寺に移されたが、現在の仏像は江戸期の再興らしい。寺には二階堂行心の五輪塔1303もあるが、これも葉山から転々と移設されてきたもの。七阿弥陀のうち運慶仏がいまも現存するのは、鎌倉大御堂の後身を唱える芦名浄楽寺のみのようだ。


 鎌倉には「がっかり名所」もすくなくない。元八幡の旗立て松も切り株だし、たいして古木でもなかったらしく、臼みたいにうつろになっている。ちかくの石清水の井もコンクリでふさいであるし、そもそも京都の本社にあるような、山の清水という地形ですらない。

 鎌倉の史跡をめぐるさまざまな伝承の真実性とか真正さというものは、意外と平凡なのかも知れない。中世からこんにちまで、七、八百年の時のなかで、涸れてゆく井や朽損する古木のスピードはよそと同じだし、やけてしまった遺物、古記録の数、うすれゆく記憶なんかも、他の土地とたいしてちがいはなかったのではないか。

 凡庸さ、ある意味それが「古都鎌倉」への親近感にもつながっている。中世とは中心をもたない時代であり、全国各地にちらばった中世、いわばそれが鎌倉の中世でもある。


 子安の蓮法寺。浦島寺の旧地(観福寿寺)としてもしられる日蓮寺院だが、その全体像は住宅街にさえぎられ、電車のまどからしか窺えない。かつて「神奈川一の絶景」とされた海の展望なんかは、裏の高台にのぼってもみえてこない。かつて龍燈松とよぶひとつ松がそびえ、灯台として常夜灯がともされていた。「前は内海渺々として、房総の山々数里に鮮やかなり。・・・後口は松樹森々として、風音常に楽を奏す。・・・」。
 
 「金川砂子」をみると、現在は蓮法寺門前に建ち、かつては観福寿寺の裏山山頂にあった浦島父子の墓とはべつに、浦島塚というものが海岸ちかい西蓮寺というところにあった由。「浦島塚」ときざんだ石塔本体は古いものではなかったようだが、名所図会にはいい感じの古塚がえがかれており、傍らに「永仁四年1296」の板碑もあったという。その西蓮寺はとうに移転し、いまは跡地さえ定かではない。


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