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もちださんの鎌倉リポート No.213(2016年6月21日)



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無名寺社紀行・6


 佐竹屋敷こと大宝寺の大多福稲荷は、佐竹氏の先祖・源義光の護り神という。現在のものはつやつやの石祠だが、はじっこに古いものもならんでいる。もともとここにあったのは、現在は大町八雲神社に合祀される「佐竹天王」であったという。

 佐竹常元(与義)一党が鎌倉公方持氏(1398-1439)にほろぼされる前、本家筋の佐竹義盛が家督を異姓の婿にゆずって出家し、ここに多福寺という持仏堂をひらいていた1399ともいう。裏山には佐竹の家紋、扇形にそっくりな畝が走っていたというが、いまでは確認できない。畝堀ということもあるから、砦があったのかも。

 比企谷で常元が討たれて1422の後、「永享問答」1436で持氏を心服させ、夷堂に本覚寺をひらいた日蓮宗の日出(1381-1459)が、多福寺をいまの大宝寺に改めた1444という。このとき持氏は永享の乱ですでに死んでしまっていた。日出はたぶん、それを常元の怨霊・佐竹天王ののろいだと言葉巧みに訴え、宗旨変えに成功したのかもしれない。


 金沢八景、引越の笠森稲荷。ここは近世に武州金沢藩の六浦陣屋になっていた場所。奉行や旗本、それにお城をもてない小藩の政庁は陣屋、とよばれた。武州金沢藩の領地は下野など各所に散在していたが、六浦は戦略的に重要な場所だった。いまは旧藩主屋敷前の石段やめぐりの土手、屋敷墓くらいしか残っていない。

 祠は、ほとんど住宅街となった谷戸の、いちばん奥。古絵図などによれば、城の鎮守八幡があった場所らしい。同社は瀬戸神社に合祀されたという。藩主米倉氏は武田源氏の支流とされ、佐竹氏とおなじく、新羅三郎義光の末裔だった。源義光(1045-1127)は八幡太郎義家、賀茂次郎義綱のおとうとで、大津三井寺の鎮守・新羅明神社で元服式をおこなった、とされる。鎮守八幡にも、おそらく新羅明神は合祀されていた。

 新羅明神は天台僧円珍(814-891)の渡唐をたすけた、とされる。もうひとりの高僧・円仁を助けた山東半島の赤山禅院という神祠は、かれの日記によれば張宝高(保皐・弓福とも)という海賊の本拠地で、この海賊が朝鮮半島の古代国家・新羅(503〜935)を滅ぼすきっかけをつくった。いっぽう円珍の渡唐には詳しい記録が現存せず、明神信仰のくわしい背景はなぞのままだ。神功皇后を三韓にみちびいた、住吉・白髭明神系の航海神かもしれない。


 レポ184で紹介した東漸寺の本堂は、花祭りの日などに公開される。桜もきれいだし甘茶も配っていて、クチコミながらけっこう賑わう。堂の後陣に、永仁の鐘(1298)や伽藍神・十一面観音などの寺宝がならべられている。ざんねんながら暗くて鐘の銘文までは読めないし、期待していた詩板はなかった。

 詩板とは長押のうえに掲げられた詩額で、横長の木の板にこまかく詩文を陰刻し、黒漆をかけ、かつては金泥などで華麗に文字を埋めていたらしい。瑞泉寺にあった徧界一覧亭の詩などは有名だが、詩板の現物は残っていない。こちらのものは1283〜1311年の詩を刻む、おそらく現存最古のものであるうえ、無学・一山・東明・南山ら、当時の超一流の禅僧がここを訪れて詠んだ詩をならべている。 

 本堂(梁牌1301)は朽損のため文明年間に減築されるなど大改修をうけ、創建当初の古材はあまりのこっていないが、とくに焼失を経てはいないらしい。発掘・解体調査を経て「往時のすがた」に復元されたのは戦後のこと。かつて詩板を左右にかかげていた開山堂は、近代の再建。詩板は一時、棚板なんかに転用されていたというが、捨てられなかったのが幸いだった。


 超有名な場所にあり、室町期やぐらの典型でありながら近寄ることがむずかしいのが、銭洗弁天トンネル上やぐら群。龕のようにほられたアパートふうのやぐらが、かなりシャープにのこっている。足場がきわめて狭いばかりか、忍び込んだら丸見え。

 現状では上下二段になっているようで、銭洗弁天入口トンネルがひらく現在の葛原岡神社参道が拡幅された時期に、路面がだいぶ掘り下げられて、いくつかのやぐらもこわされてしまったようだ。「とはずがたり」にみえる前将軍惟康親王の強制送還1289のさい、佐助の宿所から輿が京へむかった。大路をわたすわけにはいかないだろうから、ここから化粧坂上にでたのだろう。

 「とはずがたり」当時には、このへんに押手の聖天が祭られていたらしい。斎宮との密通を助けた、とされる聖天像は都から追放され、江戸時代には自休・白菊丸の「鶴岡相承院」(廃寺)にあり、相承院は佐助稲荷などを管していた。一時期、大蔵南小路聖天堂にあったともいい、また「風土記稿」には別物として記されているが、雪ノ下の青梅聖天と混同する説もある。現在の行方は不明。


 くずれかかった山道もすくなくない。祇園山展望台の崖側ルートとか、青梅聖天から泉ヶ谷に下りる道とか。名越大谷におりる道はジャングル化している。これは葛西谷の宝戒寺墓地の、上の墓にのぼる小道。さすがにこれは二の足をふんだ。あぶないとこの下にコンクリの壁なんかがある。

 ここは大町の「名越山王堂」方面にぬける宝戒寺トンネルのちかくにあるのだが、いささか曰くのあるこのトンネル開削以前にも、直上をこえる「東勝寺切り通し」があったとされる。いまは用済みとなって祇園山ハイキング‐コースのわきに痕跡が残るのみなのだが、たぶん奥の尾根はそこへ接続していたのだろう。そして、釈迦堂奥やぐら(宝戒寺二世普川国師入定窟)が宝戒寺の持ちであるならば、ここから大御堂の上を経て向かった、ということもあるのかもしれない。

 戦前の「史蹟めぐり会」の段階では大御堂経由で入定窟にむかっているが、現在はいずれも廃道。上の墓地には、歴代住職のふるい墓石などがあるようだ。


 鎌倉には鶴岡八幡のほかに、足利氏が松岡八幡というのを建てたらしいが、それはよくわかっていないという。松ヶ岡といえばふつう、足利一族の女性が門跡になった北鎌倉の東慶寺をさしたが、そうではなくて、鎌足が鎌を埋めた場所とされる。それは鶴岡八幡ふきんにあったとも、浄明寺にあったともいわれる。鶴と松。むかしより鶴には松、といわれるが松に鶴はたからないので、コウノトリかなんかと混同していたのかもしれない。

 いっぽう「鶴に亀」というのも古くからの取り合わせ。神体の陰陽石を鶴亀(つるぎ)石といったりもする。鶴岡の地名自体、亀ヶ谷との対応で名付けられたともいわれる。亀岡八幡という神社が逗子にあるが、これは明治頃、八幡宮の分社が各地で亀ヶ岡と名乗りはじめた、そのひとつらしい。


 師岡熊野神社の七夕「星まつり」には夏越の茅の輪が出る。その注連縄にぶらさがっていた形代。これは飾りなのか、神様なのか。いちおう棚機姫の仮祭壇は、本殿の向拝にささやかな台をもうけ、五色の糸なんかをあげてある。

 おなじく横浜市港北区、西方寺(レポ171)の鎮守・新羽杉山神社の手水舎にある注連縄は、藁で編んだ蛇の頭をあしらっている。菊のご紋のついた、いわくありげな馬の銅像も・・・。ちいさな謎はいろんな寺社にあり、いちいち論(あげつら)うのも、遼東の亥の子のようなものかもしれない。だが中世とは中心をもたない時代。全国各地の古社寺は、鎌倉や室町となんらかの繋がりをもっていたり、鎌倉では失われてしまったなにかを伝えていたりする。それを市境とか県境なんかで切り離してしまったら、たぶん鎌倉というまちじたいも、つまらないものになってしまう。


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