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もちださんの鎌倉リポート No.215(2016年6月29日)



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蓮華往生について・1


 東京目黒区碑文谷にある円融寺は一時期、日蓮十八中臈のひとり佐渡の阿闍梨日源(?-1315)によって改宗1283、門流の本山「法華寺」をなのってきた。しかし江戸初期の不受不施派弾圧にたびたび連座、当住の日附上人は女犯の名目で八丈島流しとなり、元の天台宗に戻されたのだという1698。

 都内第二の古さをほこる釈迦堂は、正確な年代は不詳ながら室町初期のものなので、日蓮宗時代のままらしい。国文学者はほとんど注意をとめないが、日蓮宗門にもいくつか優れたルポルタージュ文学が伝わっており、そのひとつ、日什派の「門徒古事」1425を著した日運という人が、この碑文谷法華寺の出身である、とみずから書いている。


 碑文谷といえば東横線学芸大学駅ちかくにみえる碑文谷池がしられる。寺は目黒サレジオ教会のちかくで、柿の木坂交差点下の旧碑文谷ダイエーの奥のほう。せっかくのランドマーク(道しるべ)だったが岡田屋に買収され、先日閉店してしまった。ダイエーといっても、都内だけに店内にジューク‐ボックスがあったりと、開業当初はちょっとオシャレな店だった。

 地元では「ひもいや」と発音していたように思う。白金は「しろかね」。戦国の古文書には「檜物屋(ひものや)」とも書かれ、職人部落の存在をうかがわせるが、伝承では板碑のようなものがかつてあったから、ともいっている。鎮守の碑文谷八幡境内に、梵字を刻んだそれらしき自然石がおいてあり、長年神社のせわをしているという地元のおばあさんに、七福神の彫刻や高野槇の古木など、いろいろおしえていただいた。



右は中国カラー文庫P仏教聖地・五台山の旅 中国人民美術出版社編 美乃美1984
 「法華寺」には蓮華往生の伝説がのこる。区のHP(左)にも載っているが、不受不施時代、この寺の悪僧が「カネを払えば安楽に即身成仏できる」として機械じかけの蓮華に信者をいれ、鋼鉄の花びらを閉じて殺害した。実際は下から肛門めがけて灼熱に焼いた鑓を突き刺すのだといい、僧侶らの題目の大合唱が、いまわの叫びをかき消したのだという。

 機械仕掛けの蓮華は中国の寺院なんかによくあり、お賽銭の寡多によって花がひらけ、仏像を拝観できるしくみらしい。こんなのを見た日本人が、蓮華往生などという怪奇伝承を思いついたのかもしれない。この伝説は主に講談や芝居にでてくるフィクションからひろがったのだし、尻の下に銅の鏡を敷いて成仏のからくりを見破ったのは一心太助とも、廻国中の北条時頼ともいっていて、時代観もめちゃくちゃなら、場所も房総や新宿など各地にわたっている。ただ、一部の伝説では不受不施の巨魁・日奥が考案、妖僧日附上人はその美男の弟子だったといい、寛政時代に上総一ノ宮蓮長寺にのがれた弟子・養道がふたたびおこない、その悪事をあばいたのは法華丈助なる者だ、ともいっている。



右は碑文石(碑文谷八幡)
 円融寺に改名されたのは改宗してしはらく経った江戸後期1834。そのころ、安阿弥快慶作という黒仁王が流行ったこともあった。もちろん本物の快慶とは程遠いゴリゴリの作だが、鎌倉扇谷の仏師・大蔵法眼の作1559。江戸の人気作家・山東京伝の黄表紙(大人の絵本)にも登場する。

 代表作「江戸生浮気蒲焼」は艶次郎という、だんご鼻のどら息子が女にもてようとして大失敗するエロ‐コメディ。その続編「碑文谷利生四竹節」1789は、息子・うぬ太郎の物語。息子も親譲りの「鳥羽絵のやうな」ブ男だが、仁王様に色男になるお面をさずかる。面白いようにモテるが、やがて面がはずれ・・・。仁王様はこれも教訓のためじゃ、とすっとぼけ、ブンむくれるうぬ太郎に、なぞのお菓子を渡して忙しそうにさってゆく。

 この菓子は「竹割甘露糖」といって、ほんらい男女の和合を暗示するらしいのだが、女狂いのバチなのか、すべてを失ったうぬ太郎は、容器の割り竹を拍子木に打って、四ツ竹節を歌いあるく門付け乞食として出直すしかない。まるで「笑ウせえるすまん」みたいなオチだ。


 日蓮門徒のおもしろさは、現代からみれば何の意味もない教学談義そのものよりも、非合法左翼としての伝記だ。1960年代、政治思想なんか何もないような奴が学生運動に凝り固まった・・・そんな「革命ロマン」を彷彿とさせる。

 「門徒古事」では、著者日運が、心酔する先師日什の高弟・日仁らとともに、京鎌倉の公家・武家に直訴にゆく。直訴は「庭中」といって限定的に認められていたが、いちど採決済みの案件にしつこく異義を申し立てるのは「追訴」として禁じられた。つまり最高裁で終ったものを蒸し返して国会へ乱入し座り込むようなものである。ある奉行人はいう。いま京都では禅宗と日蓮宗は肩を並べ、飛ぶ鳥をおとす勢いだ。これだけ流行っているのに、なにをいまさら要求するのか。

 日仁はいう。たしかに全体としては流行っているかもしれないが、おなじ日蓮宗でも自分以外の門派は全て狂っており、宗祖日蓮聖人の教えに違背、信じれば地獄に堕ちる。だから布教はやめられないのだ、と。



日源以下、法華時代の歴代供養墓
 なべかむり日親の著「伝燈抄」1470によれば、日什なる者は富士門流とか中山門流の世話になりながら、後ろ足で砂をかけるように去っていった。教義への情熱は評価しても、自己中心的で不義理な人物だとしている。

 たとえば漢字の訓み方とか、儀式の衣装とか、「化儀」とよばれるささいな相違を突いて揚げ足を取り、罵りあい、でまかせの「真説」をとなえて互いを否定し、檀家を奪いあう。路線対立・内部抗争・内ゲバ・・・革命家たちの宿痾は、むかしもいまもおなじらしい。日親が歎くのはそうした門家相互の人間関係であって、僧侶たちのはてしない自己顕示欲だった。そこは日親じしん、けして他人事とはいえないし、「門徒古事」の日運も恩ある碑文谷を捨てて別の寺へ行き、そこでの挨拶もそこそこに、また日什のもとへと走った。

 石塔じたいは近世のものだが、日蓮宗時代の歴代墓はまだ残されていて、日源塔のしたにはいまも骨壷などの埋納物がうめもどされているという。「上杉管領の縁者たる地頭(太田氏)にこびて教義を忘れ、異教徒のための法要を行った」、と日運が批判した、四世日明の墓碑もあった。



日蓮宗時代の鐘(1643)「南無日源上人・・・」云々
 不受不施ということは古くからあって、日親のころにも公方持氏の命令で鎌倉府内の諸宗が合同法要をおこなったさい、「天台宗と一緒くたは御免だ」とボイコットに打って出た。教義のためなら権力にも妥協せず、ひたすらトンガリ続ける私、・・・それが独立門派のアピール方法だった。法要に参加した「塔ノ辻妙法寺」は「裏切り者」「宗門の恥」とされた。

 秀吉・徳川の時代になると、さすがに多くの門派は権力と妥協する。なおも抵抗を続けたのは、もともと勢力の芳しくない、一部の非主流派の寺院だった。そのような寺には、幕府の宗門改め(寺請け制度)に必要な正式寺院の朱印状が与えられず、たまらず檀徒は逃げてゆく。孤立・窮乏化した坊主はもう後にも引けず、ますます先鋭化して邪教視され、権力を呪い、破滅の道をあゆむ。

 鎌倉では日什ゆかりの本興寺や梅立寺(薬王寺の前身)などが不受不施に連座し、破却された。本興寺は泉区飯田のが日什派の復興で、鎌倉のは穏健な妙本寺末寺に改められてしまった。「権力者からはどんな供養も受けない、なんの法施もほどこさない」。だれのせわにもならず、信者のカンパだけで生きてゆく。そんな原理主義がながくつづくはずもなかった。蓮華往生などというカルト伝説とむすびつけられたのも、もはや弁明する余地もなくなった活動家たちの、あわれな末路なのだった。


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