トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第216号 


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もちださんの鎌倉リポート No.216(2016年7月3日)



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蓮華往生について・2



朗慶墓(法蓮寺)
 碑文谷の南には日蓮終焉の地・池上本門寺があり、東の荏原町駅前には朗門九鳳のひとり、朗慶(?-1324)のひらいた法蓮寺がある。父・荏原氏は池上氏とならぶ日蓮信者で、裏手の旗岡八幡は日蓮の勧請ともいい、ここが館跡で門前に鎌倉古道がかよう。朗慶は逗子のお猿畠に法性寺をたて、師・日朗を祀った。

 さらに東、大井町から池上通りを仙台坂に下りた旧品川湊、現在の「青物横丁」界隈には、日蓮十八中臈のひとり、天目(1256-1337)がひらいた天妙国寺1285がある。天目は富士門派日興から「教義を盗んだ」などとにくまれたが、鎌倉の本興寺など、その寺はいつしか、日什(1314-1392)一派の手に落ちた。

 中興開山とされる日叡は身延の日叡とは別人で、同寺二世ともいうが生没年などからみて、天目はおろか日什にとっても、事実上の孫弟子とみられる。新興派閥をひきいる日什は、中年過ぎまで各派をわたりあるいて祖師の文献をよみあさり、各派の弱点を周到に調べあげたうえで、とつぜん独立、「あとだしジャンケン」のように門徒をうばった。天目派が富士門徒らと対決するには、「六老僧堕獄の義」をたて「亡き日蓮の著作から直接まなんだ」と公言する日什の弁舌がひつようだったのかも。



日什墓(本光寺・妙蓮寺・天妙国寺)
 目黒川の河口・南品川(旧品川湊)の周辺はさながら寺町の様相を呈し、日蓮宗寺院もかなり多いのだが、すでに室町期の文献にも「品川には三箇所」、妙国寺(天妙国寺)・妙蓮寺・本光寺などがうかがえる。この三ヶ寺はいまも日什門下の寺であり、墓地には日蓮・天目・日什らの供養塔がたっているが、とりわけゼームス坂の下、南馬場の本光寺(1382日什による改宗)の墓塔には、会津で没した日什本人の「真骨」が奉安されているという。

 天妙国寺は最も規模が大きく、立地も町の中心部。南馬場にすんだ中世の有徳人・鈴木道永―道胤(道印・長敏)―光純(幸順・源三郎)が三代にわたりスポンサーになっていた。一家は海運・流通の要地を支配、国人領主にして廻船や金融で莫大な富をたくわえ、連歌師心敬を住まわせ、宗祇・太田道灌らと親しく会を催すなど、風雅な交流もあった。心敬は品川の鱸が好物だったらしい。詳細は「慶長見聞集」の巻六にみえているが、倒潰したかつての五重塔1459の巨大な礎石ものこり、鐘は後世の改鋳だが、道胤の名を刻む古銘1443を採録する。

○ 往代の鐘銘に曰く、「つらつら以(おも)うに、
聖衆の影向・あたかも華の風に散るがごとく、結縁の得脱・また日の西へ傾くに似る。ひとたび鐘声を聴かば三宝を召請し、六道の衆生・菩提心を発(おこ)す。一口の鐘を鋳て三身の果てを祈る、善根は広く限りなく・功徳は遍く幾くあらん。
 大日本国武州荏原郡品川郷妙国寺住持法印日叡
  文安三年丙寅季冬中旬第三天  大檀那沙彌道胤
                      鋳師和泉権守貞吉」



天妙国寺(天目墓と五重塔礎石)
 中世の都市には身分制度からはみだした職人や非人、商人といった成り上がり者が多かった。かれらの一部はすでに社会を動かす経済力をもったし、和歌なんかをならって堂上貴族とひとしく交際しようとし、没落にむかう貴族たちもまた「職人歌合」などをあらわして、かれらに深く関心をいだくようになっていた。成り上がり者が抱く強烈な自意識は、日蓮聖人の狂気じみたナルシシズムとおなじだった。

 いっぽう、儒教のおしえでは「大賢は愚なるが如し」で、そだちの良い者は智慧をひけらかさない。自意識過剰の野暮天こそ、真の愚者、青二才ときりすてる。これと共鳴したのが親鸞の他力の教えであり、妙好人という愚直でおだやかな生き方だった。

 些細なことに怒り、他人の粗捜しに固執していては民主主義はねづかない。弁舌に長け、なにをやっても許される特別なにんきもの以外、いきてゆくのはむずかしいのだ。プライドのたかい芸術家肌は日蓮宗へ、おだやかで、自治的な性格をもつ寺内町の形成などは真宗のほうに傾いた。対立する二宗の悪人成仏にも、救済対象の住み分けはあったのだろう。



同・茶室
 江戸期にはキリシタンを批判する排耶書が多く流布したが、なかには「挫日蓮」なんていうのもまじっていた。不受不施はいつしか、耶蘇同然の邪宗門とされていった。大正時代、円融寺境内の仁王門側の藪から骨の詰まった大量の壷がでた、これはきっとむごたらしく殺された、蓮華往生の被害者だったのではなかろうか・・・そんな噂は近代になっても、うまれつづけた。

 たとえば、学生運動家はレーニンや毛沢東、ゲバラやシモーヌ‐ヴェイユにあこがれた。しかし理想を現実化するにはなにものかが欠けていた。金権スキャンダル以外になんの興味もないワイドショー政治、他人の人格否定しか能のない、便所のらくがきのような、生得のいんちき野党。そして「自分たち以外は9条をまもっていない」などと吠え回り、「ビートルズをみいだしたのは俺」「俺、ロック。」「イチローは俺が育てた」などと恍惚として威張っている・・・そんな、わけのわからないじじいと、おなじだった。

 正義なんてものは、どこかしら短絡したものなのだ。だがそれがどれだけ間違った結論であったとしても、「虐げられた大衆」にとっては無視よりはましな解決法であるかのように映る。反グローバリズム闘争にしても、ある国では反帝国主義・極左革命と同一視され、ある国では極右政党・ポピュリズムだなどと非難されたりする。



品川千体荒神堂にて
 宗門では「法華経」を崇拝し、「良ク効ク」と主張するが何に「効ク」のかよくわかっていない。「法華経」の信仰が現世に薔薇色の楽園をもたらすというが、その具体的なビジョンすら、提示しえない。自分たちが菩薩として現世を楽園にかえてゆく、というのでもなく、ただ信仰さえすれば、あとは遠くの何者かが、自動的に理想社会をつくってくれる。それこそが法華経の摩訶不思議な功徳というもので、自分たちの智恵の及ぶところではない、そう思ってきただけだ。

 法華経にそんな神通力がもし、あるのだとしても、なんで今日まで起動していないのか。それはいつ、だれがそのスイッチを押すのか。そもそも、他人にはケチをつけ、いろいろと条件をだし、うだうだと御託を並べ立てながら、自分は太鼓をたたいて題目をとなえる、それが唯一無二の解決法だったのか。なんの疑問もいだかず、ただやみくもに他人のせい、お上のせいにしてごまかしてきたのだとしたら、そもそも法王大聖人を名乗るかれらは、いったい、何者だったのか。



本光寺と妙蓮寺
 近代の巨大メディアも、似た傾向をもつ。誤ることじたいがわるいのではないが、かれらは絶対に誤りをみとめない。つごうの悪い部分は伝えず、中東や沖縄の反米デモも、中国韓国の排日テロでさえも、すべてなにがしか同質の正義に【要約】しようとする。か弱く貧しく満足な教育もうけていない無力な未開人が、邪悪な日本へ、たとえ手段はまちがっているとしても精一杯の抵抗をしている、などと。

 このようなレトリックに引っかかる人間は、そう多くはないのだろう。かりに一理あるのだとしても、そんなものは一理にすぎない。一理がすべてだとすれば、どんな妄動も等しなみにゆるされてしまう。1/2理と1/1,000,000理とでは、おなじ一理でもまったく意味がちがうのだ。

 しかしマスメディアはその巨大さゆえに、多くの親衛隊をうみだしてゆく。フレーム‐アップ、マッチ‐ポンプ、報道リンチ・・・テレビがいうのだから、どこまでも無謬。テレビ番組欄に付録する三文記事を次から次へ、寸時もおしまず宅配し、考える隙をあたえない。そうして民衆がみずから考える意思までころしてしまう。これもある種の、蓮華往生のようなものなのかもしれない。



天妙国寺
 「門徒古事」には日什の遺弟らが幕閣や公方府の奉行人・諸大名に執拗に提訴の取次ぎを求め、ついに将軍義満への「庭中(直訴)」におよび、拷問をうける。その記述では、はじめのうち意外にも多くの要人が対面・相談には応じているし、ある一線を越えるまでは法門についても、かなりの好意を示している。一部の武士・商人などのシンパは支援や情報提供に協力。ただ、ぐうぜん町の風呂屋にいあわせた日蓮宗の他門派は、かれらの強引な布教活動を「いつか宗派全体に累がおよぶ」と迷惑そうに非難した。

 日什門徒は、もはやカネや所領などがほしいのではなく、他宗の弾圧だけをつよく要求した。「相国寺等の五山十刹の天魔の所為たる禅法、その外・・・無間地獄の念仏等を、立ちどころに捨てて、かの寺を一々焼き払ひ、その悪智識等をば六条河原に引き出だして、皆々頸を切」るべし、と。義満が頑としてはねつけたかれらの要求とは、ずばり、他宗派の殺害だったのだ。

 こうした過激思想を「強義」といっていたが、こんな強義がすんなり通ると、ほんとうに思っていただろうか。むしろ無理難題をとなえて、予定通りに体罰をくらい、「日本国中の上下万民の苦に代わりて八熱地獄の大苦を受」けたとして門派が話題になることを、ねらっていただけなのかもしれない。直訴の首謀者・日仁という者は、ふるまわれていた茶釜の熱湯でついに「頭べの皮焼き剥ぐる上、足を挟み拉しがれ」、塵取輿で運び出されるまで大音声をあげつづけた1398。


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