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もちださんの鎌倉リポート No.218(2016年7月15日)



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貝取板碑群


 小田急多摩線、または京王相模原線の永山は、多摩センターのとなりの駅。鎌倉街道ぞいの開発地で、小山田からはちょっと奥になる。貝取板碑群は駅の西、長谷川クリニックのちょっと先をのぼった、なんの変哲もない住宅地の角なので、くわしい場所はストリート‐ビュー等でみてほしい。

 これはSさんという近くの地主さんの持ちだそうで、史蹟として公開してくださるのはほんとうにありがたい。板碑群の中央にたち文化財に指定されているのは、阿弥陀三尊画像文をもつ文明二年1470銘の念仏結衆板碑。画像板碑は上矢部や惣吉稲荷のものなどをすでに紹介したし、室町期の結衆板碑は八王子郷土資料館の月待結衆板碑(レプリカ)で説明した。

 ここの特徴はむしろ、発掘事情なのだ。


 江戸の作家・曲亭馬琴らがふしぎな話をもちよって、百物語形式で編集した「兎園小説」(日本随筆体系2)。山崎美成名義で発表されたのが貝取村の板碑のはなしだ。ある百姓(たぶんSさんのご先祖)が、薪を採るためはいった家の裏山で穴におちた。掘って見ると二間四方もある。これは戦国時代に家財をかくした隠れ穴ではないかと推測された。その排水溝に弘安元年から文明九年にいたる、大量の板碑が再利用されていたのを、ほりだした1823。

 すべて四五十枚あり、「金字の梵箔、猶存ぜり。惜しむらくは缺損のもの半ばに過ぎ、且つ文字摩滅、多くは読むべからず」。その年号が、たしかに残っている。数もいまだ40枚あまりある。「ご先祖」は祟りがないよう、この祠に手厚くまつったのだ。中央のものは、発掘時に地元の僧がスケッチしているのと一致。弘安の年号は、むかって左にうめこまれた、比較的大きな破片二枚にうかがわれる(写真)。



下半分。前机の上に華瓶・香炉・燭台がえがかれる
 結衆板碑には二条線、天蓋、来迎三尊の画像、三具足(そなえもの)の下に「文明二年(庚寅)十一月中旬」の記銘、左右に「念仏/供養 敬/白」の文字、そのまわりに結縁者十名の名が彫られている。名前は風化でよみにくいが、だいたいこんな感じ。「平三郎、孫次郎、彦六、十三郎、徳二郎」「左衛門三郎、孫四郎、平次三郎、平内二郎、権六」。

 たとえば「二郎」は草書で「二ら」みたいに書かれているし、干支の「寅」は「刀」みたいな異体字を用いている。人名はみな仮名(けみょう)なので、血縁関係などは不明たが、たぶん縁戚でむすばれ、おなじ名字を名のった擬家族的な村の乙名たちなのだろう。個別にたてた同時期の男女の名をきざむ板碑ものこるが、そちらはほぼ法名をなのっている。それに対し、こちらは墓碑(逆修碑)ではなくて、現在の町内会の顔役を構成するような念仏講のメンバーによる、村持ちの仏塔なのだ。



上部・来迎三尊図
 板碑の線刻はたいていフェルトペンで下絵を書いたような、蛭子能収ふうの素朴なものが多い。碑面がまだらにざらついてみえるのは、心ない研究者による拓本の墨の痕。見学にはさしつかえないが、デジカメ画像を縮小するさいの圧縮処理の都合で細部がひどく滲んでしまう。本来なら照明などであらかじめ陰影を強調しておくべきなんだけれど、それはプロの仕事。ここでは、実物の質感はもっと明瞭だという事を申し添えておかなければならない。

 その他の板碑は、コンクリにうめこまれていて見にくいが、篤志家個人の管理ではこれも多としなければならない。「康正三年」「応永廿」「文明九年七月二日 道祐禅門」「康正二年 逆修二月 妙法禅尼」など、いくつかは銘文をよむことができる。梵字はほぼ阿弥陀か三尊仏をしめすキリーク(サ・サク)。極楽往生の願いがおおかったし、梵字をおさめる月輪がそもそも阿弥陀三尊にゆかりがふかく、月の船は日々ひとびとの魂を西へとはこんでいた。


 かくれ穴ということは、鎌倉古道、小山田の関なんかがあって何度も古戦場になったらしいこのあたりの地理条件にゆらいする。鎌倉街道は府中街道ともいい、本町田から小野路(ともに小山田庄の内)をへて貝取にはいり、関戸から多摩川をわたって府中のてまえ、元弘以来の激戦地・分倍河原にいたった。

 川崎の岩川不動のあたりにも、同様のかくれ穴が「新編武蔵国風土記稿」に記述されいてる。板碑や五輪塔類をおさめた転用やぐら「かんかん穴」との混同もあるようだが、ここのは板碑が「排水溝に使用されていた」のだから明らかに祭祀施設ではない。墓直しの際に、無用になった墓誌などを裏返し、板石材として使用したのだ。

 発掘整備前、信長の安土城には題目墓石などが落ちていた。不信心な信長が石垣用に盗んできた、というよりは、すでに当時のお寺じしんが、無用となった墓石類を石垣などへさかんに再利用していたようなのだ。中世までは墓碑も仏塔も区別がなかったから、なかには石仏さえまじっていた。板碑は橋板になったり、割って礫(つぶて)になったものもあったようだ。


 墓直しの事例としては、やはり江戸の文人・太田南畝が「調布日記」に紹介した鵜の木光明寺がしられる。いまの田園調布の南隣、ちかくに中原街道がかよい大田図書館なんかがある、多摩川沿いの町。そこでは上墓といわれる古塚に、下墓より古い遺骨や墓石をうつす習慣があった。南畝は半ば埋もれて散乱する中世の貴重な板碑群を発見。金を出して別に塚を設け、銘文のない破片は重ねて埋め、立て直してやった。南畝の塚はいつしか破壊され板碑は別に保管(非公開)、上墓の塚は古墳時代の古墳を再利用したものと判明し、別の意味で復元整備されてしまったため、いまは面影もない。

 そういえば鎌倉の和田塚も古墳時代の古墳で、中世には浜の悲田院となり、塚は再利用され多くの無縁仏を集めたが、近世以降は耕作で削られて、いまはなんのことやらわからない空き地になってしまった。



鎌倉街道(信号の奥、レンガ色のアパートの下が板碑)
 権五郎景政が死んで、その持仏を祀ったという、横浜市港北区新吉田町にある正福寺(レポ160)の北の斜面からも、大量の板碑がでた。これは川崎市に寄贈されたらしいが、今どうなったか知らない。寺の片隅にほこらでもたてて、見学できれば歴史ウォーキングのみどころの足しにでもなるのだが、文化財にも指定せず、なんでもかんでもしまってしまう。しまっているだけでは、ないのも同じだし、やがて研究者が売ってしまうのか、捨ててしまうのか、再調査で行方不明となっている遺物もおおい。学問を社会に還元できていないのだ。

 かりに博物館にはいったとしても、地域の歴史からは切り離されてしまう。貝取の現地にあれば、多摩ニュータウンに散在する貝取緑地のあの山か、この山かの斜面続きに立っていたむかしを思いやるよすがになる。名はしらないが、弘安から文明年間にかけて、なにがしかの武士が、いまは小奇麗な新興住宅地になっているあのへんの平場、あの辺の谷戸のほとりに、いたのではないか、と。


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