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もちださんの鎌倉リポート No.219(2016年7月18日)



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御伽衆・1



御野立からの眺め
 「太平記」の原型を書いた小島法師や、「徒然草」の兼好法師らは、何者だったのだろうか。兼好は神道の名門吉田家の一流神官くずれとされるが、高貴な隠者であったたしかな根拠はなく、金沢北条氏や高師直なんかに仕えた右筆か茶坊主のようなものだったらしい。茶坊主とは、諸芸・話術にすぐれ、主人や大事な客人などに茶など立てながら応接する役の者。

 江戸初期の仮名草子を著した人々となると、もうすこしはっきりしてくる。彼らは浪人が多かった。何人かはかつて大名や高僧に近侍して、「御伽衆」をつとめてきた者だった。下級の秘書としてつかえた右筆などならば、主君に関するくわしい記録を書き集めていたとしても不思議はない。



江雪斎(北条五代記・万治二年刊本より)
 芸能をもって権力者に近侍した例としては、東山殿足利義政の同朋衆、とりわけ相阿弥などが知られる。かれは絵師・造園・連歌・茶道などに才をあらわした。阿弥と名乗るのは時衆の「無縁」を示しており、主をさだめず芸をひろうする芸能人に向いているが、これはいっぽうで公的な地位・身分を定めず、高貴な人物との私的な遊び相手であることを表明したものでもあった。

 小田原北条氏政(1538-1590)に仕えた板部岡江雪(田中融成1537-1609)は、もともと真言僧として出家していたものが右筆から評定衆へのぼりつめたのち、秀吉に赦され、御伽衆として寵愛された。連歌・茶道の才もあったほか、「真書太閤記」には秀吉の伏見城の空堀に水を引く秘術を教えた、としている。現在も伏見の城跡には紅雪堀がのこるほか、紅雪町の地名もあって、重用されたことをものがたる。小田原に亡命し、江雪と親交をふかめた茶人・山上宗二が切腹させられたのとは好対照だ。

 息子ふたりは徳川に帰参していまの横浜市長津田と相模原市淵野辺に所領をたまわる旗本となっており、番町(四谷付近)に屋敷をあたえられた。紀州徳川頼宣・水戸頼房を生んだお万の方の母(北条氏尭、または氏隆養女)は、実は江雪の妹であるとされ、次男の家系はこのゆかりから初め水戸にいた頼宣に仕えたようだ。関が原合戦屏風には江雪は家康の本陣・葵の幕のしたに描かれている。老練の外交軍師として、小早川の裏切りを斡旋したのだ、とか。家康は一時小田原北条と縁戚を結んでいたから、旧知の人物だったのだろう。


 江雪の先祖は中先代北条時行だという。のち伊豆で田中を称し、小田原時代の板部岡をへて岡野にあらためた。「叱り閻魔」の石像がある横浜市長津田の大林寺に岡野氏歴代の墓があるが、江雪は家康の伏見城下で死に京都に葬られたので、ここにあるのは供養塔。「為傑翁凉英大居士/大然忌菩提也 旹寛永十八辛巳年/六月三日」と刻まれているが、照光院傑翁凉英が戒名で六月三日は命日、大然忌は曹洞宗でいうところの33回忌1641のこと。

 墓地には裏に系図までついた丁寧な顕彰碑も建っているが、残念ながら苔の跡がまだらになって、ひどくよみにくい。北条時行の子孫がどんな過程をへて後北条につかえたのか、主君の改姓との関わりなど、かならずしも明らかではない。伊豆田中郷にいた父・泰行が氏康の家臣となり、江雪は鎌倉の寺院関係の文書に数多く署名しているため、寺社奉行であったと推定されている。これも北条の血筋をなのったゆえなのだろうか。

 ちかくの公民館(長津田地区センター)で江雪展があるというので訪ねてみた。業平の化身という石神を、遠く瀬谷から奪ってまつったという大石神社の裏手。展示は既存の資料を無数のパネルにまとめて羅列しただけで、遺物とか未公開古文書のたぐいはなかった。子孫の家にもくわしい記録はないらしい。地元の歴史愛好家の研究成果としてみれば、これも相当な力作というべきなんだろう。


 石神や公民館のある峰筋は神明ヶ丘といって、大正時代に皇太子が観兵式をやった御野立記念碑がたっている。北側は線路に切り落とされ、眺めが良い。鎌倉にもこんな碑が、立ち入り禁止の山の中にいくつかのこっているらしい。丘の裏手には、人気歌手のMay Jさんがかよった森村学園がある。

 大林寺に残る鎌倉時代の板碑1303は、線路に切られた部分にあった、東光寺という寺の跡にたっていたとつたえる。風化がすすみ、年号なんかはもうほとんど読み取れないが、銘文は観無量寿経の有名な偈、「光明遍照・十法世界・念仏衆生・摂取不捨」がかすかにみえている。

 だが、岡野氏いぜんにどのような侍がいたかは、ほとんど不明なままだ。小田原役帳には葛西様、すなわち古河公方の料地とされており、記載はないが土着の代官はいただろう。長津田の北方をくだると鶴見川の第二の本流・恩田川がながれ、田園風景がひろがる。そこには恩田氏という鎌倉時代からの有力武士がいたが、公方持氏のころ、禅秀の乱に連座して滅んだとされている。その恩田の一角、長津田に渡る旧大山街道(246)のほとりに、いつしか相模の土豪・糟屋氏の一統が進出していた。このことについては、次号に後述したい。(※小田原役帳は神奈川デジタルアーカイブで公開されています。役とは役高、すなわち年貢高の意味)



全体図はレポ77
 近世には、岡野氏は有名な放火少女「八百屋お七」のたたりを受けたともいわれる。担当取調べ官の同僚にすぎなかったとも、手下の柳田が刑場への馬を引いたからともいうが、大林寺山門のちかくにあるコメダ珈琲のすぐ裏のアパートの入口に、お七稲荷がまつられている。その地は柳田の家の跡で、その先の長津田幼稚園が岡野氏の陣屋跡なのだとか。周辺の地名「御前田」は、OKマートの裏をながれる岩川のほとりにひらけた田圃の名残りのようだ。滑川クラスの細流は、中世の村落にはつきものなので、いかにもはやくから開けた土地であることをものがたる。

 大林寺はかつて南東のいぶき野小学校辺に創建されたらしいので、この地はまず谷筋にあたる下長津田がひらけていたようだ。下長津田の河原氏は、先祖権守源信基なるものが北条高時に殉じて死んだ。その子がおじを頼ってここに土着したとつたえる。のちに高時の「子孫」が長津田の領主になったのは、なにかの縁。また伯楽谷戸のちめいがあるのは、このへんにも牧があったなごりなのだろう。



お七稲荷・長津田幼稚園
 江雪と同じく後北条方出身の三浦浄心(茂正1565-1644)は、零落ののち天海僧正にひろわれたといい、説話形式の小ネタを編んだ大著「慶長見聞集」をのこした。その一部は「北条五代記」など何冊かの仮名草子としてまとめられ、一般庶民向けに出版もされた。千夜一夜物語のシェヘラザードではないが、すべて語りつくすまでは殺される心配はなかった。

 「北条五代記」によれば、板部岡江雪は後北条氏から伊豆七島の代官をまかされ、八丈島の視察に海をわたる。そこは美女ばかりがすむお伽の国で、挿絵にはピエロみたいな南蛮服のものも【写真2】。江雪も島の者に得意の能を舞ってみせたり。うそかまことか、いずれにせよ江雪という洒落者の畸人ぶりをあらわす話だと、浄心は理解していたのだろう。

 仮名草子の起源のひとつ「信長記」は、信長の右筆のひとり大田牛一が書いたもので、はじめは「吾妻鏡」のような漢文まじりの記録ふうの体裁をとっていた。これをやがて小瀬甫庵なる別の作家が物語風に改訂し、版木に彫ってひろく流布するようになった。やがて庶民が喜ぶような、伝奇的工夫もくわわる。剣術を元手に諸将をわたりあるいた宮本武蔵もあるいみ御伽衆のひとりであり、かれじしんがまた、物語られる対象にもなった。



恩田川(鶴見川)・岩川
 「大河内朝鮮物語」は朝鮮征伐にいった武士のむかし語りだが、神に誓って真実だというその記憶はだいぶ薄れていて、全羅道と忠清道をとりちがえるなど地理関係もあいまい、オンドルのなかから巨人がでてきた、などかなり伝奇的な要素もみられる。蔚山籠城のあたりでは主君大田飛騨守一吉や加藤清正と対等の口をきくなど、じぶんを大きくみせたりもしている。

 御伽衆のようなものは、たぶんどんな時代にも存在した。それは毒にも薬にもなったのだろう。戦前の衆愚政治をつくったのは新聞だった。御伽衆がのこした文芸作品もまた、政治とは隔絶した純芸術、とばかりはいえないのだと思う。「平家」や「徒然草」の原型となったものがたりが、権力者のために語られたことは否定できない。義経や清盛らはみずからの著作を残していないのだし、歴史を知るには、ほかの何者かによって、懇切丁寧に「語られる」ひつようがあったからだ。


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