トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第220号 


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もちださんの鎌倉リポート No.220(2016年7月20日)



No.219
No.221



御伽衆・2


 長津田をつらぬく旧大山街道(現・246)の川向こう、下恩田(田奈)石塔坂あたりには、糟屋清印の宝篋印塔1573なるものがある。江雪の子・岡野房恒(?-1658)は「相模の住人・糟屋豊後の娘」を妻とし、小田原合戦1590のさい岩付の北条(太田)氏房の留守をあずかって手傷を負い、ここ恩田に身を寄せていたという。徳川に降ってすぐ長津田を領地にたまわったのは、このゆかりもあってのことらしい。「北条記(続群書本)」巻六には「城中より新曲輪の軍急なりとて・・・坂部岡(ママ)など、爰を先途と禦ぎしが」云々、とみえる。

 ただこの「恩田の糟屋氏」は小田原合戦で滅んだらしく、寿光院という寺はやがて廃れて、明治以降は墓地だけとなった。いい具合に荒れて幽邃のふんいきをのこす墓地に、糟屋氏の四つの塔はたっている。とりわけ二基の印塔1573は背丈ほどもあり、一見したところ室町初期のものの転用をおもわせる、きわめてすぐれた作だ。



石塔坂(下った先は現246)
 「奉読誦法花妙典一千部成就。/為判用道印十三回忌。乃至利/益不限而已。 孝子武州恩田/住糟屋清印(敬白)。元亀四(癸酉)天三月五日」。二組の印塔および五輪塔(残欠)には、大ぶりの文字でそれぞれこのような銘があり、戦国後期に糟屋清印という人が父母「判用道印」「妙永禅尼」の冥福を祈ったものらしい。ただし五輪塔のほうは表面の剥落がいちじるしく、ほぼ同趣の内容が推定されるだけ。

 糟屋氏は伊勢原あたりを発祥とし、横山党のうちでも北家藤原元方流、などとつたえる。ただこの人は有名な大納言元方(南家)とは別人で、よくわからない人物。じつは佐伯氏かともいう。鎌倉武士としての一族は「糟屋豊後守盛久」を祖としたが、比企の乱・承久合戦などで敗北、各地に離散した。糟屋館は室町時代、大田道灌が殺されたことでしられるように扇谷上杉定正の持ちになっており、すでに末裔のすむところではなかった。

 清印らの系図はあきらかでない。ただ、小田原北条氏の家臣にも糟屋某がいたことはしられており、糟屋豊後というのは先祖・盛久の呼称を代々なのったのだろう。糟屋清印の父母が銘文の日付でほぼ同時期に死んだとすれば、12年前におきた上杉謙信による小田原侵攻1561の影響をおいてほかに考えられない。母・妙永の塔の日付は八日だから、五日に死んだ夫のあとを追った、ということだ。



道印塔(左塔)基座格狭間の銘文
 恩田は小田原役帳1559にも百二十八貫文にせまる大型の郷だった。鎌倉期には万年寺の梵鐘(レポ79)がつくられ、南北朝期には金沢称名寺から等海上人(レポ170)が入り拠点とした。恩田氏は長津田の北、中恩田堀ノ内(現・あかね台)にいたとされるが、禅秀の乱1419の余党・武州南一揆として「恩田美作守」が追討をうけたという。竹の寺として知られる鎌倉報国寺の檀那で、長津田の近隣に榎下城(現・旧城寺)をいとなんだ上杉憲直が、公方持氏の命をうけ発向したものとおもわれる。

 恩田氏の衰退後、鎌倉本覚寺の日朝(1422-1500)の文書には一時期、日蓮門徒もふえたといっているので、万年寺の鐘が瀬谷へ質物にとられたり1452、代わりに石神を奪ってきたなどというのも、それと関係があるのかもしれない。小田原役帳には小机衆の筆頭・小机城主北条三郎領とするだけで、ざんねんながら在地代官等の注記はない。かつて石塔坂にあった寿光院は、過去帳などから文明十年1478の開基らしく、たぶんそのころ、寺のあった下恩田のあたりが糟屋氏の預かりとなったようだ。こちらは街道筋でもあり、神鳥前川神社という古社もあって、市をたてるなど流通経済の発展とともにさかえはじめた地区なのだろう。

 石塔坂をくだった現在の246からは、やがて婿殿にあたえられる長津田が、恩田川にかかる大橋(恩田大橋)のすぐ向こうにのぞまれる。糟屋氏はたぶん滅んだが、婿・岡野房恒の逆修墓(大林寺)には1656年の年号があり、すくなくとも90前後の大往生だったことがわかる。



妙永禅尼塔(右塔)の銘文
 板部岡江雪こと田中融成の系譜は、北条高時-時行(中先代)-2輝時-3田中秀時-4兼時-5親時-6勝時(善兵衛)-7泰行-8板部岡融成とされる。ちなみに北条氏綱は、時行(中先代)-2行氏-3時盛-4行長-5伊勢長氏(盛時・宗瑞・早雲)-6北条氏綱(-7氏康-8氏政)と系図をつくって伊勢氏を改め、北条と名乗っている。

 江雪が北条氏の末裔をなのる理由は、おそらく主君氏政と同族、「御一門」になるためだったろう。板部岡というのは、江雪の出世にさいして馬廻衆・板部岡康雄なる者の遺産をつがせるための改姓とされるから、田中氏そのものはほとんど実体がなかったのかもしれない。

 しかし氏綱はいったい、何者をめざして北条をなのったのだろうか。後北条氏は学問を愛し、金沢文庫からおおくの書物をとりよせた。鎌倉史には相当の造詣があり、たとえば現在伝わる「吾妻鏡」の写本も、後北条氏を経て流れたものらしい。系譜上では、鎌倉北条氏も室町時代の実務官僚・伊勢氏も、あるいは鎌倉時代の実務官僚・長崎氏のたぐいも、みな桓武平氏(伊勢平氏)の一類であることはたしかなようだ。



右五輪塔地輪「・・・千部成(就)。為妙永禅定尼十三年忌(證)大菩提(也)。乃至・・・」
 鎌倉時代の名門・執権北条氏はもともとの官位じたいあまり高くはなく、その子孫を名乗ってみても官位昇進のための仮冒には役立たない。中先代こと北条時行は、鎌倉奪回に失敗したのち南朝勢力と合流し、父・高時が蒙った「朝敵」の罪をゆるされた。とはいえ晩年は南朝の衰勢とともに消息をたち、とくに英雄視されていたわけではない。室町の名門・伊勢氏を名乗り続けていてもよかったのではないか。

 北条氏を自称したということは、じぶんはあくまで関東公方(俗に鎌倉将軍ともよばれた)を補佐する【執権】、すなわち【関東管領】の地位しかのぞまない、ということの表明だったのかもしれない。じっさい関東侵略の大義は旧来の管領・両上杉の退治だったし、やがて古河公方の身柄を手中にしてからは、関東管領の正当性を越後の謙信と争った。前述、上杉謙信の小田原攻めも、謙信が鎌倉の八幡宮でみずからの「関東管領就任」をうたうデモンストレーションを強行したさいに起きたことなのだ。

 謙信は関東武士の人心掌握については失敗した。映画「のぼうの城」で知られる成田氏は離反したし、岩付の太田氏は小田原派に転覆された。戦国というアナーキーな社会においても、自由と平和は希求されたし、放埓な自由にひそむ悪を掣肘する恐怖政治のようなものも、度がすぎれば嫌われた。後北条の統治が多少緩かったにしても、在地武士にとっては比較的、心地よかったのだろう。ただ、そこが付け目となって、百姓などの造反もすくなくなかったのだとか。


 鎌倉北条氏への評価は、中世後期までは比較的たかかったようだ。「神皇正統記」を著した北畠親房にしても、畏れ多くも後鳥羽院らを島流しにし奉った国賊、といった大義名分はさておいて、先に戦端をひらいた院の妄動を非難。むしろ鎌倉時代の大平を築いた執権義時らの質朴な善政をほめている。これが乱世に生きたものの、いつわらざる実感であった。

 中世には、日本各地で「私年号」ということがおこなわれた。北朝を奉じる室町幕府に公然と反旗をひるがえした、というよりはずっと内面的・宗教的なもので、平和の到来を祈る、ある種の験かつぎのようなものだったらしい。

 さて、下恩田にはちょっと変わった庚申塔ものこっている。現在の「田奈町大谷戸地区」にあたる小高い丘陵の頂部、「榎が丘」との境界にたつ五輪塔型庚申塔1650は、北鎌倉にのこる最古期の三猿式庚申塔(レポ94)より前の世代にあたる珍しい形。五輪種子は火輪にふたつ刻んで、空いた地輪に庚申供養の旨が詳記される。


 「時に慶安三(庚寅)の暦、庚申待の供養せんが為に五輪の塔婆一基、造立し奉る。願い望むらくは、祈る所を悉地成就せんと。 霜月吉日、施主敬白。武州都築郡恩田村」。側面には奉加者8名の名がきざまれる。風化もあってどれも完全には読めないが、兵蔵とか勘十郎とか書いてあるらしいのは、なんとなくわかる。ここでも俗人の仮名(けみょう)だけを顕し、苗字その他をうかがうことはできない。

 家柄は当然敵味方をあらわすから、仏事には戒名などをもちいて俗世の縁を韜晦する流れは古くからあったが、江戸期には制度化されていった。すなわち兵農分離いご、俸禄をうけられなかったものについては原則として苗字帯刀を禁じ、公式に苗字を名乗れなくなった。たとえば敵方出身で、かりに武士として仕えてもたいした俸禄も期待できない血筋の者なら、名をすてて村名主にでもなり、年貢とひきかえに先祖代々の土地を安堵されたほうが都合がよかった。

 苗字にはたぶん、愛憎の歴史がきざまれていたのだ。中世世界の亡霊とは、そうした物語の内にあって、せっかく安定した江戸の大平を、「過去の恩讐」とか「歴史の真実」、「名誉のための死」などといったもので穢されたくなかったのだろう。当の百姓にとっても、際限なく修羅の闘諍をくりかえす戦国の世にくらべれば、鎧兜を捨て去ってしまったあとのほうが、ずっと幸せだったのかもしれない。それでも多少の未練から、侍だった時代の古文書類をつたえる旧家もいくらかはのこった。


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