トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第221号 


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もちださんの鎌倉リポート No.221(2016年9月3日)



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青砥藤綱



銭拾い伝説の東勝寺橋
 青砥藤綱は実在の人物か。滑川の銭拾いは、近世の小説や芝居に数多くえがかれ、知名度は高い。しかし資料としては後代の「太平記」に廉直な士としてみえるだけで、そのほか「弘長記」など、やはり後代につくられたあやしげな書物に詳記されるにすぎない。北条時頼〜貞時につかえたとされるが、「吾妻鏡」などは鎌倉後期をカバーしていないし、二巻本「北条九代記」(武家年代記)その他、古文書類にも確認されていない。

 「青砥左衛門」という人名は南北朝期、室町幕府の引付方にわずかにみられ、鎌倉の実務官僚のおおくが建武政府や足利方に引き抜かれた経緯から、その父祖におなじ名字・仮名(けみょう)で呼ばれた藤綱か、そのモデルとなるような人物がいたとしても、とくに不都合はない・・・その程度のことが推測されるばかりなのだ。


 はたして青砥藤綱は実在したのだろうか。鎌倉後期の人物には、同様に出自や実在があいまい視される例がすくなくない。「平政連諌草」の政連にしても、中原氏出身ともいわれるし、たとえば北条一族に婿入りして改姓したとか、記録に見える引付・評定衆いずれかの人物の異名だとか、いろんな蓋然性が考えられるが、たしかな決め手はない。

 南北朝期には、多くの武士・公家が鎌倉との関わりを隠すようになった。流言蜚語がとびかい、正しい記録ができなかったともいえるが、元弘三年1333にちかくなればなるほど、記録は書きなおされ、肝心の記述量はほとんど削除、または省略されてしまっている。花園院など、天皇家の日記ですら事情はおなじだ。

 藤綱屋敷の跡は、浄明寺地区に伝承され、その谷戸にむかう橋を青砥橋、とよんでいる。なにがあるわけでもなく、鎌倉青年団による碑が立つだけだ。また青砥の地名、および伝承地は全国各地に散在し、それぞれ本家をとなえているが、中級武士の所領得分というのは各地に分散するのがふつうだから、ゆかりの地などはいくつかあってもいいわけだ。


 一説に青砥藤綱は桓武平氏、大庭近郷なるものの末裔だといい、父祖は承久合戦で上総国青砥庄(または安房国平群郡砥河とも)をあたえられた、などという。ただしこれらの地名が現在のどこにあたるのかはさだかでない。ちなみにこれは曲亭馬琴の説。

 東京都葛飾区青戸にのこる藤綱御殿説は、ふるくは葛西氏の葛西城があり、一時古河公方が住んで「葛西様」「葛西御所」とよばれ、江戸時代に狩御所「青戸御殿」もおかれたため、これと混同した訛伝とおもわれる。

 近郊ではほかに横浜市にも青砥という地区がある。JR横浜線を町田から横浜方面にむかうと、中山駅のてまえあたりに田圃や梨畑などの農業専用区がちょっとひらけている。首都圏では希少な自然なのだが、駅をおりてまっすぐ、川をわたった右側あたりが青砥町。鶴見川中流域で、ふたつの本流(谷本川・恩田川)があわさる。つまり「逢ふ処(あふど)」「おおと」となったらしい。ここには藤綱をまつるという小祠がある。



ひだり脇に「勝部氏」の銘
 蓮生寺という寺に、その「青砥大明神」の石祠が移築されているが、石祠自体はそうふるいものではなく、江戸後期、墓とつたわるものの上に当寺関係の日蓮僧がたてたもの。以前は青砥バス停ちかくにあったらしいが塚は風化し、祠だけがのこった。

 隣接する北八朔・西八朔は倭名抄に「針折(罰佐久)」とかかれているが、「馬柵」のことで、古代の官牧の跡ともいわれる。信州の佐久には望月の牧があったし、淀にあった美豆の御牧などのように、川辺の荒蕪地を牧に利用するのは、古代には合理的だったとおもわれる。東と南に「馬柵」がないのは、前述のように鶴見川が二股にながれるからで、川堤がその役をはたしたのかも。だとすれば青砥は牧のなかにひらかれた村だった。

 川向こうの佐江戸には北条氏ゆかりの無量寺があり、すぐ対岸の川和町・妙蓮寺にはかつて七面山があって、お猿畠開山の朗慶が庵を結んだなどと伝え、入寂の年月をきざむ題目板碑を所蔵する(七面山は七面堂のみが残る)。もう一方の川の対岸・中山町にはアモーレ長友の名を冠したフットサル場、そのうえの大蔵寺も、あいまいながら鎌倉古道(中原街道)に接する中世の古寺の後身とつたえている(いつぞや紹介した、道元とキノコの銅像がある)。


 このへんは鎌倉中期に幕府が佐々木泰綱に命じて再開発した鳥山郷を中心とする小机領。江戸期の領主は旗本の勝部氏で、蓮生寺の檀那でもあり、明神石碑の奉加者でもあるのだが、佐々木一族の末裔であるという。古写真によれば、戦前まで河道はひどくくねっていたようだ。大水がでれば荒蕪地となり、土木による復興がかかせない。藤綱のような幕府官僚と縁戚になっておけば、治水事業に協力させやすい。・・・なんにせよ、決め手がない以上は、空想をひろげるほかないようだ。

 馬琴のまとめた通説によると、藤綱は父・青砥藤満の妾腹の末子で、寺にやられた。才知あるものとしてやがて還俗、孫三郎藤綱となのり、仕官をのぞむ。片瀬川のほとりでぐうぜん執権時宗に見出され、引付・評定衆へ出世。倹約をこのみ、裁判は公正、得宗領に関する訴訟でも、権力におもねず、謝礼の品も送り返した。執権貞時は祖父時頼のまねをして諸国行脚をおこなおうとしたが、藤綱の諌めをうけ、おもいとどまった。また貞時が八幡宮の霊夢をうけ、三万貫の加増を打診したが、廉直の藤綱は固く辞退したという。


 「弘長記」には、宝治合戦の残党をとらえ、内外に宥恕を示す儒者の説は甘い、と法家らしくその愚を強く諌めたりもしている。「不孝無道の者・・・訴論を構へ、内縁を以て奉行頭人に伺へば、『非なるは罪科逃るべからずとて、下にて某(それがし)扱ひ侍らん』とて、理非の訴へを上に通せず、押して中分に決せらる。理あるは半分の負けとなり、非あるは大いに勝つ。愚かなるはこれを国法かと思ひ、智あるは嘆き、さて止み候」。

 悪人がコネをたよって裁判をごまかし、内分にむりやり引き分けにもちこんで巨利をえている。反論できないのは執権時氏・経時以来、北条一門が内々で政治を独占してきたためだ、・・・などと「弘長記」の記述は独自の政治論にむかう。この書では藤綱は時頼に仕え、時頼の廻国修行を勧める。やがて時頼は出家、死んだと披露し、ひそかに巡察の旅に出る。弘長年間の奥付けはあるものの、これはおそらく偽書であって史実とは言いがたいが、藤綱伝説に仮託した一個の政治論であることはたしかだろう。時頼廻国伝説もまた、「太平記」あたりからみえてくる説話にすぎない。

 浮世草子の「鎌倉比事」には巻四にすこし記されるばかりだが、これは宋の「棠陰比事」という裁判小説の翻案で西鶴がヒットさせた「本朝桜陰比事」の、さらに焼き直しとみられる。ただこれも藤綱の名が、歌舞伎や近世文芸を通じて庶民にひろまってゆく端緒となった。



馬琴「青砥藤綱模稜案」1812より。いかにも堅物らしく描かれている
 謡曲などにみえる中世の訴訟悲話の多くは、資金切れ等により所領をだまし取られたとか、あまりに訴訟が長引いて夫婦・家族が崩壊するといったパターンだ。とくに遠隔地に分散する所領を管理することは困難で、「鳥追い舟」なんて曲では、10年も留守にしていたため、困窮のすえ家臣がつけあがり、主君の妻子を鳥追いの奴隷あつかいしてしまう。それでも家臣をクビにしたり、訴訟を放棄するわけにはいかなかった。なんとなれば全てを失い、人買いに身をうるほかなかったから。

 一所懸命なることばは、中小武士にとっては身にしみて切実なものがあった。近世のように、土着の百姓になるか、安定した俸禄をもらうサラリーマン武士になるかした時代とは、社会背景がちがっていたのだ。江戸期には鎌倉時代に仮託し、前述「鎌倉比事」などの裁判小説も書かれたが、裁判の内容・司法機関の進化など、時代観のちがいはいかんともし難く、やがて青砥藤綱は名奉行大岡越前に、北条時頼の廻国は水戸黄門の漫遊へと、主役の座をゆづりわたす。


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