トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第222号 


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もちださんの鎌倉リポート No.222(2016年9月10日)



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城郭遺構について・1



七曲
 県内における小田原後北条氏の支城として、もっとも重視された玉縄城。基本的には三浦半島の押さえとして修築されたが、半島には公方勢力の里見氏が房総から激しく来襲したため、北条水軍を管轄する指令拠点としての意味ももった。写真は、七曲口から植木方面をみおろしたところ。玉縄城じたいは純粋な山城で、軍艦は浦賀や三崎などの出城にたむろしていたようだ。

 したがって陸戦とか、籠城戦とかで活躍した城ではない。信玄も謙信も素通りしていった。おなじく横浜市域を管轄した行政拠点としての小机城も、実戦ではほぼ放棄されていた。秀吉の小田原攻めにそなえ、あわてて増築した八王子城にしても、あんまり役には立っていない。むしろひみつ基地のまま、おわってしまった。


 玉縄城の本丸は尾根筋をりようした高土塁にかこまれていて、土塁の上は帯曲輪のような細長い平場が形成されていた。その残存部「諏訪壇」は、そのむかし城の鎮守の諏訪神社があった場所といい、神社は今、城のふもとに移転している。

 現存する唯一の遺構であるかのようにいわれるが、現在「清泉女学院」の庭になっているため、一般公開はされていない。修道系の学校ということもあるのだろうが、不審者にはきびしいのだ。かりに遊歩道の石段(写真)をのぼってみたところで、なにがあるわけでもない。玉縄資料館(下写真)や学院講堂のロビーにある立体模型(レポ63写真5)によれば、諏訪壇は七曲の崖のうえにそびえ、鎌倉旧市街に正対し植木・柏尾川方面がみわたせた。いまは木々が生い茂って、見晴らしもないが、おそらくここに物見櫓が建っていた、と推定されている。


 こちらの模型は玉縄資料館のもの。手前をながれるのが柏尾川で、右下が長尾砦、左下枠外には川をへだてて山崎天神砦。右上に東海道がかよう。城の中心部を拡大して、詳細を下の見取り図に示した。

 見取り図中央の本丸には、ぐるりと高土塁がかこみ、空堀で周囲を掘り割っている。山をけずった造成ぶぶんは周囲に際限なくのびていた。どこまでが城でどこからが砦かの区別もない。そこがコンパクトにつくられた近世式の城とのちがい。ひまさえあれば、どこまでも蜘蛛手に、増築されていった。道を切る竪堀、敵のうごきを制限する畝堀、・・・その多くが実戦的な陣地・塹壕のようなもので、ぜいたくな「天守閣」とか「殿様御殿」などというようなものではない。


 曲輪の多くは宅地開発などによりつぶされているが、前述の諏訪壇と鞠蹴場(まりけば)とよばれる平場が清泉女学院アプローチの左尾根にのこる。また太鼓櫓の跡、といわれるものは、七曲坂上の土塁(帯曲輪)にあいた門跡の左右にあたるもので、諏訪壇がわは民家の、向かい側は高圧鉄塔の敷地としてのこされ、いまは後者に解説板などがたてられている。

 本丸周辺の高土塁(帯曲輪)は諏訪壇をのこしほとんどが削平され、清泉女学院の敷地として単純な台地となっている。本丸大手門はグラウンド裏にのぼる学校裏口ふきんにあった。校舎北側にのこる土手(写真下)は花畑曲輪の縁にあたるため、本丸北側を大きく掘り割っていた空堀は講堂の下に完全にうまってしまったことがわかる。講堂は元の地形を利用して奥にくだっており、たぶんそこが堀だったのだろう。花畑とは、お寺で供花や薬草をうえた畑をいうことがおおいが、ここでは兵糧用の要素が大きいと思う。


 清泉女学院は1977年列聖されたラファエラ・マリア・ポラス(1850-1925)創立の、聖心侍女修道会の系統。日本への伝道は昭和になってからで、空襲の影響でこちらにこしてきたらしい。蒔田の英和女学院もミッション系だから、宗教家は荒れ果てた城跡が好きらしい。

 弁護のためにいっておけば、中世の城跡できちんと保存されているものはいくつもないのだ。野七里(鎌倉霊園の裏手)にある横浜市の埋蔵文化財センターのリーフレットによれば、たった数メートル程度のばかげたトレンチ(試掘坑)で「確認」された横浜市内での城跡伝承地は6ヶ所。「遺構未確認」のまま放置されているのが33。アマチュア研究者がすでに土塁などを報告しているものも、いまだ「未確認」にふくまれているから、行政や専門家による発掘調査のうごきはにぶく、保存どころか、ほとんど研究なんかされていないのだ。



「玉縄城跡」清泉女学院中学高等学校1961初版2012復刻
 破壊をまえに、玉縄城の遺構をせめて見取り図や写真集にのこしたのは、「鎌倉市史」考古編でもおなじみの赤星直忠さんら。航空写真では同心円形の縄張りがうかがえるし、本丸の写真では右に切れ目のある本丸大手口土塁、中央奥に諏訪壇、本丸平場は二段になっているのがわかる。ただ、在野の資金力では、それより詳しい調査・発掘にはいたらなかった。

 この当時、鎌倉同人会の石碑こそ立ってはいたものの、行政や大学研究者らは手付かずの貴重な遺構とは認めていなかった。破壊されたあとになって50センチくらいのトレンチを掘り、「はじめて学術調査のメスがはいった」などと手柄のようにいっても、あとの祭り。精密さを欠いた赤星さんの調査や女学院の協力がおざなりだったなんて不平は、筋違いの批判でしかない。


 自然地形、既存の峰筋谷筋をどのように削り、盛り上げ、同心円状の縄張りにしたてたのか。もはやたしかなことはわからない。古い地図は等高線の縮尺がいかにも粗く、実地にみれば一目瞭然だったであろう人為的な痕跡を、かならずしも伝えてはくれない。立ち木を伐採した時点で撮られた、赤星さんらの写真集が、唯一のてがかりだ。

 戦国の城跡は、廃城後、畑や宅地として再利用されたものもおおかった。すでに平らになっているので、わざわざ開墾する手間がはぶけたからだ。丘陵のうえにある不自然な平場・畑のたぐいは、逆に言うとなんらかの遺跡であることがおおい。たとえば大量の縄文土器片が散乱していたり、弥生集落がみつかったりする。ただ後世の耕作によって土塁などがくずされたり、柱穴など、遺構面の一部がすでに荒らされているという欠点もあり、そこが考古学者たちの発掘軽視にもつながっているようだ。

 鎌倉でも京都でも、市街部の発掘や遺構の保護はうまくいっていない。だからこそ開発前の山林の保全にはきをつかってほしいのだ。


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