トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第223号 


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もちださんの鎌倉リポート No.223(2016年9月14日)



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城郭遺構について・2



玉縄資料館にて
 この想像イラストでは、上部やや右よりの花畑曲輪群から本丸、大手前曲輪、中央下部が寝小屋にあたる。左に喰い違い曲輪群をはさんで円光寺曲輪、右には七曲坂。本丸のすぐ右横につく四角いちいさな曲輪は、鞠蹴場(まりけば、または花見堂・花見殿)とよばれる。じっさい蹴鞠や花見を行ったかどうかは不明。後北条家には板部岡江雪など能好きのものもおり、玉縄を舞台とする謡本なども残っている。

 寝小屋は平時に城主や預かりの将らが暮らしたところで、一般に周囲には家臣団の宿所や城下町の原型のようなものがあった。城下町といっても、戦国のことだから板屋根の、仮設的な要素がたかかったとおもわれる。


 古写真をみると「本丸」の土塁はかなり高かったことがわかる。これらは空堀もろとも造成で削平され、現在、諏訪壇とよばれるもっとも高い部分をのこして現存しない。鞠蹴場曲輪は、諏訪壇のすぐ下にテニスコートのような四角い畠になってみえており、古写真をみるさいに指標となる。googleの航空写真なんかでみる現在のテニスコート(2面)よりは道をへだてた南側にあたるのだが、広さといい方位の傾きといい、かなりの相似をしめしているのが面白い。

 低い土塁で四角に囲むということは、稲村小学校のうえの「一升枡」や、霊山の「五合枡」曲輪の上(山頂部)にもみられる。それらは樹木の伐採がなされていないため、明瞭な俯瞰写真などはまだないようだが、現地では明瞭にのこる。この種の構造が元弘合戦にまで溯るものかどうか、注目されている。


 (時計回りに)玉縄資料館にある大手門模型、七曲坂、同、大船観音口。発掘がじゅうぶんに行なわれなかったこともあり、上部構造などはほとんどわかっていない。後北条時代の城では、八王子城の一部に立派な石垣が分布するが、これは笠原・間宮などの使者が安土城を見学した後に模倣した試作品・未完成城郭という説もあり、「後北条氏の城郭様式」としては例外とすべきだろう。

 玉縄城の復元イラストは、よその城郭遺構や同時代にえがかれた絵巻物などの情報から類推し、専門家の監修を経た想定図とおもわれる。櫓のようなものは、奈良の寺社に「鼓楼」「鐘楼」などとして実例があり、すでに律令時代の秋田城にいくつも建っていた、と記録されている。中世では「結城合戦絵巻」に、瀟洒な楼のようなものがかなり精緻にえがかれている。太田道灌は江戸城に静勝軒なる風雅な重層楼を築いた。それは小田原合戦ののちまで残っていたともいわれ、道灌の時代には宴会場としても用いられ、富士山を眺望し、詩板などがかざられていた、という。


 こちらは同時代の遺構がのこる横浜市の都筑茅ヶ崎城(レポ64参照)。詰めの城にあたる主郭東曲輪、説明版、中郭礎石建物(倉庫)跡、土塁内側。右上の図は、室町以前と戦国後北条時代の縄張りの変遷を示すもので、拡張・土塁などの増強のほか、既存の曲輪を空堀によってこまかく細分しているのがわかる。

 土塁は内側に低く切り立って、楯・塹壕としての利便性を高め、外側の斜面は高くなめらかで上からの弓や鉄砲をよける陰がない。有事には土塁のうえに鹿垣を結い、楯をならべ幕などを引けば、どこのスキマから矢が降ってくるか下からではわからない。

 主郭には恒久的な建物はすくなく、平時には数棟の倉庫がたっていただけ、とみられている。「根小屋」は城の搦め手、下のパネル写真では手前の麓、民家のたつあたり。城山の左端には堀切をへだて、鎮守の茅ヶ崎観音堂がたつ。



(発掘調査前1978)
 この茅ヶ崎城の立地は写真左上、大山街道の荏田城・旧都筑郡衙から早淵川沿いをくだる伝路(点線)が城の大手(川寄り)の曲輪を貫通している。素通りされてしまっては意味が無いので、このような小城・陣地があらゆる要路を扼しているひつようがあった。

 ただ、中世には交通が発展し、同時にすべての道を押えつづけるのはむずかしい。敵が大軍であったばあい、防衛線がいたずらに延び、数少ない守備兵をあちこちの城に分散してしまってはかえって不利になるのだ。扇谷・三浦・里見氏ていどならともかく、信玄や謙信、秀吉クラスの大軍相手なら、攻守ともに本城である小田原に傾注するため、ほとんどの支城は自主的に放棄してしまったとおもわれる。役にたつかどうかは戦況しだい、将来への布石として、軍事的な確証もないままきずかれた城も多かっただろう。その点でも、支城の発展には地政学的な限界があったはず。



右下は早淵川からみた遠望
 鎮守の茅ヶ崎観音堂、ならびに東傍の寿福寺には「多田行綱」の伝承がある。行綱は摂津源氏の嫡流で、多田満仲の末裔。鹿ヶ谷事件では平家に密告、のち一ノ谷合戦では平家追討に活躍したが、朝廷派として頼朝の勘当をうけ、直後に義経を裏切って西国落ちの判官一行を襲ったことで知られる。

 その後の消息は不明で、かりに勘当が解けたのだとしても、時代観が合わず本人の築城とする説はうたがわしい。ただ、「とりとめのない伝承」と切り捨てるのは早計で、伝説の行綱本人でなくとも、その末孫が土着し「先祖の位牌」をいまの観音堂にうつした可能性はある。たとえば太田道灌も摂津源氏の末を名乗り、譜代の縁者にも摂津源氏の子孫はいたはず。

 後北条時代の茅ヶ崎村は「座間豊後」なる者の知行地になった。座間氏は本貫とみられる神奈川県座間市とは縁薄く、この都筑茅ヶ崎城近辺におおいとされ、かつては座間山などの地名もあったという。座間市には佐々木信綱奉納の鐘があるが、佐々木氏の所領が茅ヶ崎城にちかい小机鳥山郷にひらかれた時点で移住した、佐々木氏譜代の土侍ではないかと推定する説もあるようだ。



西郭と東郭。○が人の大きさ
 都筑茅ヶ崎城の遺構はかなり良好にのこり、戦国城郭が見やすく整備されている点では全国的にも屈指のものだ。築城当時としてはむしろ記録するに足りない「ありふれた城」だったようだが、そのせいか奇跡的に破壊をまぬかれてきたのだ。

 このあたりは港北ニュータウンの開発までは鉄道駅からも離れ、戦前に佐藤春夫が「田園の憂鬱」にえがいた武蔵野の原風景のおもかげが、かなり遅くまで残されていた(上パネル写真)。公園化にともなって、花壇やら噴水やら、かえって無残に破壊されてしまう城跡も多い中、バブル時代にニュータウンの開発が比較的おくれたことが、住民の憩いの場として、正しい形で整備保存されることにつながった。


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