トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第224号 


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もちださんの鎌倉リポート No.224(2016年9月19日)



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城郭遺構について・3



矢部氏館跡
 相模原市「上矢部の土塁」は、横山党矢部氏の館跡とされるもので、川へくだる坂のてまえ、立て札がなければちょっと気づかない。この写真の角度からしか見学はできないのだ。道路の拡張で切断されているが、館は左側にあり、右下の民家敷地のほうが外側で、逆台形の堀が検出された。

 境川はもうだいぶ上流なので、河岸段丘もたいした段差はない。すこし下流にあたる淵野辺氏館跡は「子孫」の方がお住まいで、とくに遺構というほどのものもないが、それでも段丘は小高い(レポ95)。かたわらにゴルフの打ちっぱなしがあるが、見下ろすくらいの高さはあり、川辺にはまだ畠も残っている。



立川氏館・奥沢氏館
 方形館とよばれる中世の素朴な城館はおびただしく存在した。原型は古墳時代の豪族館で、足利の鑁阿寺館や信玄の躑躅ヶ崎館などはかなり進化した部類。近世の旗本や零細大名の陣屋などにも、貧弱な堀や土塁をめぐらす方形館にちかいものがあった。特殊な例としては中世の環濠都市・環濠集落というものもあり、これは都市や農村の集合居住区をまるごと、堀や土塁でまもるといったもの。寺院や寺内町を囲むこともあった。

 中世城館のうちには河岸段丘を利用するなどして要塞化したものや、山岳の砦(詰めの城)と一体化したものもつくられるようになる。後者の場合、のべたように「根小屋」とよばれる麓の屋形が平時の住居で、そこはやがて当直の武士や家臣がすむ場所にもなり、いわゆる城下町としても展開してゆく。もちろんそれは大規模な主要城郭のばあいであり、おおくは小作人をしたがえた田舎長者の屋敷ていどのものだったろう。



榎下城跡の大手と本丸隅の土塁
 横浜市緑区、旧城寺にのこる榎下城跡は、鎌倉公方持氏の寵臣・宅間上杉憲直の居城とされ、鶴見川(恩田川)に張り出す舌状段丘を二三に区切った素朴な縄張りをもつ。土塁のほとんどは墓地や境内の拡張などで空堀部分に埋めくずされているが、大手口の左右はまだかなりの高さがあり、傍らには銀杏の古木もたつ(写真上段)。

 大手側土塁は、内側からみてもかなり高く、かつて外側は峰筋を切り離した空堀によってさらに高低差を増してそびえたっていた。食い違いの虎口なども設けていたらしく、鉄砲時代(すなわち後北条氏時代)の増強とみられている。東西側の土塁上面はうしなわれているが、谷筋が天然の箱堀となっている。

 本丸の土塁はごく一部がのこるのみで、西南隅に弓道場があり、そこだけが墓地の造成を受けずにすんだ(左写真下段)。空堀の深さを強調するため、堀の外側ももりあげる「二重土塁」であったらしい、わずかな痕跡がある。


 右写真の左上は削られた本丸土塁の上部、その下は同じ土塁の法面を南曲輪からみたところ。土塁下の空堀は埋められすでに墓地になっているが、弓道場下の隅だけはややくぼんだ痕跡がのこっており(右写真右上)、上部土塁角には物見櫓をたてていたと推定されている。

 縄張り図などは検索ででてくるので割愛するが、付近の地形にもかつては広範に造作があり、本城をみわたせる小高い岡や、鶴見川に突き出す出崎などには、それぞれ砦とつたわる場所も分布する。外郭をふくめた城のテリトリーはあんがい広大なのだ。子供のころには城のわきにまだ畑があって、城主の墓といわれる塚に五輪塔や印塔の破片がいくつか散乱していた。竹薮のなかに等高線にそって横にはしる溝や切り岸をともなう平場、唐突に鍵の手に曲げた箇所に段差までつけた山道なんかもあった。写真右下は西ノ前‐神明砦付近からみた城跡だが、周囲はすでに新興住宅が取り囲んでいる。


 城跡は一見わかりづらいし、平場や土手のようなものは耕作の過程や、近代の造成でも容易に構築されるため、部分的にみても「これがなにをいみするのか」、価値判断がつけにくい。また、石垣とちがって土塁などは草や木々が生い茂り、ほとんど伐採整備もされていないので、現地を見ないかぎり、写真ではなかなか立体感をもって全体像をうつしだすことができない。

 しかし上杉謙信とか徳川家康とかいったビッグ‐ネームも、戦国時代にはこのような城や砦で戦ってきたのだ。たとえば203高地や第一次大戦の激戦地に、「豪華な天守があって」「金屏風があって」「バカ殿が腰元を追い回していた」はずがないのと同じで、実戦的な城というものはいわば陣地であり、一見「なにもない」かのようにみえる。もちろん、見る人が見れば「なにもない」などというものではないのだけれど。



NHKの画面より(出演者の顔は消してあります)
 巨大な土塁としては、京都の「御土居」がしられる。いまも一部が残るほか、JR山陰線がこの土手を利用して敷設されたことからも、その位置と規模がうかがわれる。一般立ち入りが禁止されているところも多いが、NHKの人気番組「ブラタモリ」にでていたので、著作権法32条に配慮しつつ、学術資料として引用させていただいた。峰筋を利用してこのように「形成」された地形というのは、じつは鎌倉にもかなり多いのだ。

 もともと一定の高さをもった台地だったものが、谷の開析作用によって細分され、峰筋が一定の高さになることはすくなくない。ただ、土塁のように何十メートルにも亘って同じ幅をたもち、不自然に平滑になることはそうあることではない。人工の造作が加わっているかどうかは、歩いてみればかなり明瞭になる。


 かつて、「文化人」は城といえば天守閣と心得て、わざわざ現状を破壊し模擬天守なるものを建て、広場まで造成して「史跡を保存した」などと胸を張った。その反省から、専門家は発掘以外、信用しないようになっていった。ただ、5メートル掘ったところで5メートルのことしかわからない。京都でも鎌倉でも市街地の発掘は困難だし、山林なんかは私有地として、なおさら後回しになっているのが現状だ。

 わたしたち素人は、できるだけ現場をあるき、痕跡としてなにが残っているのか捜すほかはない。まず見えるところから見ておかなくては、歴史はすぐに失われてしまう。メディアや研究者の発表をどれだけ待ってみたところで、とうとう発掘なんかされずに終ることのほうが、多いのだから。


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