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もちださんの鎌倉リポート No.225(2016年9月22日)



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城郭遺構について・4


 金沢八景にあった六浦陣屋のばあい、屋敷まわり(内曲輪)の土手くらいしか残っていないが、この先を右に折れた突き当たりにもとの鎮守跡があり、宝前は馬場跡。鍵の手に奥へすすむと旧藩主の屋敷墓が残っている。歴代墓は秦野市の蔵林寺にあるから、ここは廟所・火葬塚のようなものなのだろう。

 この宝塔には文化年間の記銘があった。「享年二十又九」、九代昌俊の墓。藩主米倉氏は甲斐武田の旧臣だが、柳沢・朽木氏など代々養子縁組が多く、昌俊も水野氏の出。しかし代々藩主は30-40前後と、なぜかみな短命で死んでいる。

 古図によれば陣屋表門は六浦ガード付近にあり、泥牛庵の裏を削った京急線路による切り通し(下写真)は、その原型が六浦陣屋のアプローチだったことになる。現在は線路によってギリギリまで削りとられているため、もとの地形を知ることはできない。絵図に描かれた切り通しは鍵の手にまがっていて、こうした形態は旧名越や大仏坂など、中世鎌倉の切り通しにはおなじみのものだ。


 切り通しが表玄関、というのはきわめてユニークだが、上行寺の前がかつての六浦湊だったことを考えると、たしかにそちらが表側だし南側にあたっていた。現在の駅側は裏門・通用口だったらしい。近世の金沢道は裏門をかすめて泥牛庵前の切り道を迂回し表門、すなわち現在の六浦ガードふきんにでた。これは現代のルートとほぼおなじ。

 米倉氏が下野皆川よりここに陣屋をうつす1723はるか以前、中世の引越の谷戸には浄願寺や能仁寺などの寺があったとされる。また線路の西側は現在、右写真のような大型の分譲アパートが建っているが、かつてその斜面には、上行寺東やぐら群が数段にわたってつくられていた。切り通しと寺院・やぐら群が一体だったのだとすれば、中世にはすでに切り開かれていて、金沢道も当初はこちらを通っていたのかもしれない。


 陣屋といえばペリー来航前夜、横須賀に海防陣屋がおかれ、その出城として腰越八王寺山や稲村ヶ崎などに台場(砲台場)がきずかれた。稲村ヶ崎海浜公園の平場はそのころ削平されたものらしい。

 ペリー以降、幕府は江戸湾防衛に傾注したため、品川台場(いわゆる「お台場」)や神奈川台場のような本格的な築城はおこなわれず、半成りのまま放棄されていったらしい。ここを構築した長州藩は鎌倉にいくつかの痕跡をのこしたし(レポ183)、台場の構築は吉田松陰・河井継之助をはじめとする志士らの関心をあつめた。付近には近代の壕なども残っており、詳細は定かでないが米軍の上陸作戦に備えたものともいわれている。なんにせよ、ここでも中世の遺構面はのこっていない。


 山崎跨線橋から鎌倉方面をみたところ。すでに高い位置までビルなどが建ち並んでいるが、右の天神山には玉縄城の砦があったとされる。本城と砦のあいだには柏尾川がながれ、濠にも運河にも使用された。周辺の道や、いくつかの尾根にも要害がほどこされた。広義には砦を結ぶこうした余白の部分も、城の一部なのだろう。

 鎌倉初期、九条兼実の日記「玉葉」には「鎌倉城」という記述があった。ただこれは京都を「平安城」とよぶのと同じで、城郭の意味ではないという反論もある。京都にせよ鎌倉にせよ、多少の防衛施設があったことは疑えないが、そもそもどの程度厳重なら城郭か、そのへんの定義はまちまちだ。比叡山にも籠城戦はあったし、いくつかの城郭もいとなまれた。

 この山崎のあたりも、新田義貞の鎌倉攻めで洲崎合戦があったから、あるていどの防衛施設はあった、とおもわれる。


 杉本寺の周囲の丘陵に分布する平場のほとんどは、私有地であったり立ち入り禁止になっている。住房の敷地、花園(寺畑)などにはじまって、やがて杉本城といわれる砦のかたちとなり、有事には陣地として使用された。杉本寺本堂の右にある石塔群は、奥州北畠軍の奇襲を受け、ここで玉砕1337した斯波家長らの供養塔とされる。

 ふだんから城内にすんでいた末端の僧侶の庵や寺奴の仮小屋なんかは、有事には解体して材木となり、こんな鹿(しし)垣にすがたをかえたのだろう。ここに幕をひけば、敵はどこが通路で・どこに掻楯(かいだて)がめぐって・どこから射られるのか、わからなくなる。立派な石垣や塀などをおけば、構造的には姫路城の「は」の門などとおなじだ。もちろん白亜の土塀と貧弱な竹垣とのちがいはあるにしても、実例があればこそ「にたような」構作物があった可能性を示唆するのだ。


 これは朝比奈切り通しの鎌倉側、直線的な大切り通しの上部。ほとんど階段になっている。仮に平らにしても傾斜が傾斜だけに、荷車はもちろん、馬でも疾走するのはむずかしい。杣から長い材木をおろすため直線にしたとか、特殊な用途があったのかもしれないが、それにしては立派すぎる。それに峠のむこうがわは、ふつうのせまい山道なのだ。

 近代における造成とか、切り下げ、拡幅の可能性、石切の痕などを根拠に遺跡の存在を否定するむきもある。しかし実用的な観点からみるかぎり、近世以降に旧道を痕跡もなく改造し、わざわざこのような大階段をもうける合理的理由となると、じゅうぶんな説明はできないのではないか。これならむしろ荷車や人力車が通れる九十九折にでもしたほうが、よほど合理的ですらある。じっさい大仏坂では、別にゆるやかな明治の旧道がのこされている。

 そこから、中世の遺構としての意味が帰納されてくる。保存状態は万全でないにせよ、遺構の証明には、中世の土器片とか遺構面なんてものは、かならずしもひつようではないのかもしれない。



山崎跨線橋からみた玉縄城全景
 城とはなんだろう。すくなくとも天守のある、近世城郭だけではないことはわかった。ただ中世城郭にも、土塁にかこまれた屋形のようなものとは別に、平時は無人の砦とか、陣地程度の要害とか、あらゆる山中にむやみに掘られた堀切のような断片的な遺構もある。

 正徹が「なぐさめ草」1418に、歌人守護・斯波義重(家長のおい)が十数年前にたてた尾張清洲城の初源的な姿をこう記している。・・・櫓あり、鹿垣あり、暫し兵(つはもの)の軍(いくさ)を防ぎ、白波(*盗賊)の恐れあらせじ、となり。すべて弓の庭・鞠の懸かりなど、うち入りてはなを寛かなる意(こころ)なり。寝殿の西に廊続きたる方に一宇あり。竹陰(*竹陰軒)と号し補陀大士(*観音像)おはします。・・・

 定義とか分類から外れたものは「遺跡ではない」、土建屋の弁護士や広告会社なら、そういう研究者が好ましいのだろうが、はたしてそれを「研究」というべきなのか、疑問は尽きない。もちろんそんな提灯学者ばかりではないことを信じたいが、地元の方やアマチュア愛好家による遺構保存の訴えも、これからはますます重要になっていくんじゃないかと思う。


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