トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第227号 


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もちださんの鎌倉リポート No.227(2016年10月5日)



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鐵古典獅子


 中世後期の「風流(ふりゅう)踊り」を伝える古いタイプの獅子舞が、横浜市青葉区鉄(くろがね)町にのこっている。鉄神社は桐蔭学園入口のバス乗り場付近にとりのこされており、町内用の一般の獅子舞とはべつに、集落からちょっとはなれたこの神社でだけ、隔年で奉納されている。

 獅子舞は仏教とともに伝わった伎楽・散楽・舞楽の演目に由来し、年中行事絵巻(祇園祭)や信西古楽図にも描かれているが、やがて一部が田楽の風流踊りと習合し、各自が胴につけた太鼓を打ちながら跳ね踊る、中世風の芸能へと進化した。鎌倉坂ノ下の獅子も口をひらいたりするタイプではなく、頭にのせるだけだから、かつてはこことおなじように、空いた手に撥をもって風流を舞い奏でていたにちがいない(レポ91写真3)。



先導はひょっとこと猿田彦(三番叟)
 風流の古い例は京都・今宮神社などの記録に見え、方相氏とよぶ五つ目をした魔よけの鬼(鎮疫神)などが舞い、花笠に先導された児童が笛・太鼓・ささらなどを奏でながら巡行し、疫病をはらった。鎮疫神は他に「鍾馗」「武塔天神」などもしられるが、やがてこれが獅子頭(ししがしら)や龍頭(たつがしら)などといった、より馴染みのある護法神の面に変わったようだ。

 かつては鉄町でも集落の奥にある宗英寺から町を巡行したらしいが、いまは神社が隔絶してしまったこともあり、鳥居の下のバス乗り場を一周するだけ。花笠は竹ざおに造花をつけて振り回すタイプだ。また、笛役の綾藺笠に造花をつけたり、ささら役の人が角隠しみたいな傘帽子をつけているのも、花笠の変化したものなのだろう。



牝獅子を奪いあう大頭と小頭
 舞はおおまかに二部にわかれ、前段がいわゆる「宮褒め」で、ここの庭には黄金が花咲く、といったたぐいの小歌がうたわれる。後段は「牝獅子隠し」といわれるもので、写真奥の大頭(ツノは剣)と手前の小頭(ツノはねじ型)が、まんなかの牝獅子(お歯黒で宝珠をいただく)をめぐって争う。バレてなお間男をかばう女、怒り狂ってはねまわる亭主。やがて和解して平和がおとづれるといったパントマイムだ。こうした三頭獅子は、ほぼ東日本に分布する。

 いくつかの歌は、やはり古典獅子が多くつたわる東京・多摩地方のものと共通している。なかには「鎌倉の由比ガ浜の浜千鳥 波に揺られて羽音たてた」などという小歌もまじっているが、さして深い意味はないのだろう。多摩地方・あきる野市には東京獅子博物館などもあり、そこでは全国各地のコレクションがあつめられている。ここの獅子は鉄(くろがね)の名にふさわしく漆黒にぬられ、ゲジゲジになった目蓋や唇の典型的な形状などから龍頭(たつがしら)に分類される。東北地方では「鹿(しし)踊り」といって、鹿頭をもちいるものもある。



ご亭主は銀目をつりあげ、若い間男は金目を下げてにやけ顔
 龍は一般的に鹿角であらわされることが多い。ねじ状のツノは漢方の万能薬・龍角の一種ともいわれた「うにこうる(イッカクの牙)」を象るようだ。また獅子頭には一本角・三本角などの例もすくなくない。

 頭かざりには毒蛇を食うとされる雉の羽をもちい、頭部には家々からあつめた古い御札を細く裂いたものを鬘にする。東北地方では長い串に御幣をつけて背負ったりするから、これも御祓いの大幣をあらわしたものらしい。むかしは腰にも御幣を付け、見物人が「お守り」としてむしり取ることもあったというが、現在はおこなわれていない。

 ひとつ申し添えておかなくてはならないが、古い住民のあいだでは、この龍頭は古代朝鮮様式のものだとされている。だが、「韓国獅子舞」を画像検索すれば明らかなように、朝鮮獅子とは似ても似つかぬものだ。かつて調査に来た「教育委員会の偉い先生」がミス‐リードし、いつしかさまざまに尾ひれがついていったらしい。「モナリザは韓国人」などと論じるB級学説はあとを絶たないが、文化人は代々そういう法螺話ばかりを広めきたのだ。


 かつて村にこの獅子舞を伝えたのは、江戸初期の旗本・加藤景正といわれる。その父は長久手の合戦で討死した忠景で、信長の旧臣であったという。景正も慶長のころこの地を賜り1602、大坂の陣などで活躍。景正がひらいた村の菩提寺・宗英寺の右側墓地の、いちばん高いところに墓が整備されている。

 また別の説では同じく慶長のころ、ある村人の先祖が府中是政か稲田堤あたりから来て、悪疫退散のために伝えたのだ、という。多摩地方の獅子舞の伝授には、江戸初期に茨城の鹿島踊りがつたわったとするものがあり、鉄町の獅子舞にも「鹿島から切節習えと状がきて」云々、という同じ歌詞がまじっている。鹿島踊りというのは悪疫退散に効能があるとしてひろまったらしい。

 鉄神社はもともと「青木・杉山明神」といって、この地域(旧都筑郡)固有の神を祀り、とくに鹿島大社その他ととくべつな伝承関係があったわけではない。「鐵古典獅子」はたまたま現代に残っただけで、当時は広範にひろがった芸能の、無数にあったもののひとつにすぎなかったようだ。



笛・ささら・法螺貝・瓢箪
 風流踊りは田楽集団を核として各地にひろまったと考えられ、こんにちの盆踊りのルーツにもなった。一般的には各地の名物行事へと「発展解消」していったのだが、趣向を凝らした衣装や歌詞などに古様を残すところも多く、関西では白鷺の扮装をする鷺踊りや、造花で飾った切り子燈籠を頭にのせて踊る赦免地踊りなどが有名。

 「百錬抄」久寿二年1155四月の条に、「近日、京中の児女、風流を備え鼓笛を調べて紫野社に参る」としるされ、ふるくは疫病に襲われやすい少年少女たちの稚気あふれる厄除け行事が主体だったようだ。音楽が魔を避ける、ということは山伏がつかう法螺貝や錫杖、念仏者が鉢叩きにつかった瓢箪などが、その名残りをとどめている。ただ、残念ながら鉄町では、こどもたちの演奏はおこなわれていない。おばちゃんたちが祭りのあいまに、ちっちゃい子たちにお囃子の太鼓をいじらせたりはしているのだけれど。


 鉄町は青葉区庁舎のある東急田園都市線・市ヶ尾駅からバスで10分あまりにすぎないが、かつて佐藤春夫が「田園の憂鬱」を書いたゆかりの地で、鶴見川の対岸に「寺家ふるさと村」もあり、ひかくてき農村だった時代のしずかなたたずまいを残す。見物客もそれほど多くはない。実はこのちかく、あざみ野の驚(おどろき)神社にも、にたような古典獅子がつたわっており、そちらは駅近くの街中ということもあって、毎年にぎわいをみせる。

 祭りの日(10月2日)はひさしぶりに暑さがぶりかえし、大頭を演じていたおじいさんがひどくバテてしまっていた。祭りには主だった家の長老が演じるしきたりなのだろうけれど、「町内会行事」に集まるような子どもはまだ低学年くらいの子が多く、こども神輿ていどにしか参加できない。模擬店もささやか。桐蔭の生徒など、もうちょっと若い人が学園祭がらみで手伝ってあげてもいいのかもしれない。


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