トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第229号 


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もちださんの鎌倉リポート No.229(2016年10月15日)



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伝統芸能について・2



大倉山
 伝統芸能とはいいながら、日本でも、迷信打破にやっきになった時期はあった。その結果、お筝なんかもちょっと安っぽい軽音楽みたいになってしまったりと、「明治以降の創作」に堕している芸能もすくなくない。かといって、いまさら元に戻そうとしても、うまくいかない。中途半端な「えせもの」のまま、なんとなく停滞してしまう。

 全国の神社でおもにおこなわれる「浦安の舞」は平和をいのるもので、昭和15年、いわゆる紀元二千六百年を期に新作した神楽。八乙女舞とよばれる女舞楽は、かつては宮中の五節などで、特選とよばれる美人をあつめておこなわれたが、中世には朝廷の衰微、白拍子の流行などでほとんど廃れ、もはや少数の神社に退化して伝わっているだけになっていた。



鶴見神社
 もともと巫女は神社内に住んではいても、賽銭をもらって口寄せや託宣などをのべる個別営業をなりわいとした。だが明治六年、「梓巫、市子、憑き祈祷、孤下げ、玉占、口寄せ等の所業」が前近代的だとして禁じられ、神道の粛清が求められる。巫女は正規の神職にいちづけられ、舞姫として正式な祭事に相応しい、統一的な舞曲がもとめられたようだ。

 「浦安の舞」についでよくおこなわれる「悠久の舞」は、兀庵の弟子で元寇のさいの祈祷1271でしられた宏覚禅師こと東巌慧安(1225-1277)の和歌にもとづく。のち鎌倉に下り「和賀江に聖海寺を開創した」というが、未詳。杉田東漸寺開山堂にまつられる円覚寺4世・桃渓徳悟(1240-1307)も勅謚宏覚禅師の額をかかげているが、おなじ名を贈られた原因は不明。

 伝統のもつ生命力は、かならずしも停滞をいみしない。さいきん流行りのハロウィンは、キリスト教以前からアイルランドにつたわるケルトの信仰にゆらいする。いわばヨーロッパのお盆。そこでは妖精(おばけ)が信じられていて、妖精が赤ん坊を虚弱児にかえてしまう「取替え子」なんかがよくしられる。そんなのが人気なら巫女だって、もうちょっと自由に芸をひろうしていいような気もする。


 書道では「高野切」とか「端白切」とかいって、平安時代からのさまざまな書風を臨模することがある。もちろん現代とは筆の構造もちがうし、枯れた風合いの松煙墨と油煙墨のべっとりとした墨付きとでは、筆のはこびもちがってくるにちがいない。専門家がみれば書風でだいたいの年代がわかるのだという。

 これはdecoさんという先生の作品。第一回の個展とかで、横浜山手の洋館でひらかれていた。撮っていいよということだけれど、ガラスが反射するため、斜めに撮っていることはご了承いただきたい。しろうとにはどう評していいか判断が付きかねるが、継ぎ色紙に小町の歌、なんだか月並みすぎるかんじもする。でも端正でオーソドックスなやつのほうが、画廊ではよく売れるのかも。

 キモノなんかでも、現代のは遊びがすくなく画一的で、どこかありふれた蒲団柄のよう。戦前のもののほうが独創的でおもしろいといわれる。



相武台前
 盆踊りの余興で、相撲部の学生がこども向けの相撲教室。みんなしり込みするのを、うららちゃん(仮名)とかいうちっちゃい子が自信満々の笑顔で進み出て、バレエでもやっているのか、ゆかたの足をたかくあげて四股をふむ。やがてほかの子たちも、すごすごとでてきたけれど、積極的なのは女の子ばかり。すもうギャル「スー女」が急増中だとかいうが、ちびっ子のあいだでもそうらしい。なんだかトトロのおじさんと遊んでいるみたいだ。

 プロの力士のあいだでも、スイーツ親方がでてきたり、メロンパンナちゃんをこよなく愛する関取がでてきたり。初場所から琴奨菊、そしてその琴奨菊を倒した豪栄道のひさしぶりの全勝優勝、なんて明るい話題もあったが、いったいこれからの角界はどうなってしまうのか、笑いながらも不安もよぎる。



坂ノ下
 そういえばお祭りなんかでも、女の子の活躍がめだつ。大阪にはギャル神輿、京都では祇園囃子の「女鉾」なんかも登場している。ひとつには、伝統芸能を主題にしたマンガなんかの影響もあるのかもしれない。ぎゃくに、三浦のチャッキラコなんかでは、女の子に門付けのようなことはさせられないとして、戦後に一時反対運動がおきたこともあったという。このへんが微妙なところ。

 祇園祭なんかではかつて、女の子が引き綱をまたぐのでさえ怒号をあびたものだ。性のタブーには、遠い古代の記憶から神に魅入られるとか、いけにえとして命をとられるとかいったいろんなりゆうがあったのだろうけれど、信仰そのものが空疎化しているのだろう、みんな「迷信」などとして近代的な安全解釈でわりきろうとする。いぜん入院さきで会った自由が丘うまれのオバチャンは山岳写真が趣味で、女人禁制の大峯なんかにも、みんなでコッソリのぼったらしい。

 若者は新年のカウントダウンやW杯日本戦なんかでお祭り騒ぎをするけれど、「氏神の祭り」なんていうと二の足を踏む。伝統を軽視する「近代」教育のせいなのか、よそものを排除する町内会の名主根性のせいなのか、そこは知らない。それにしても男の子の消極ぶり、植物化にはなんともいえない思いがする。



都内某所にて
 やっばり祭りってえのはこんなんじゃなきゃいけない。民俗学的にいうと、祭りは世界が壊れて再び生まれ変わる、更新の日。ジミ‐ヘンドリクスがギターをぶち壊すように、神輿をぶつけたり、海にながしたり、バラバラにする地方もある。イランなんかではお神輿じゃなくて、ホメイニ師のような死んだ偉い人のお棺を、なかみが出てきてしまうほどふりまわすらしい。そうしなければ、世界はけして再生などしないのだ。

 スペインの闘牛や牛追いまつりなんかでも、危険だとか野蛮だとかいった理由でつぎつぎと変更においこまれた。浅草の三社祭でも、本物の暴力団員がまぎれこむなどして、なんども中止を余儀なくされた。ただお祭り騒ぎは人類に共通のもの。やみくもに禁止してもべつの「祭り」がうまれるだけだ。ばかみたいに政治家が更迭されたり、革命とうたう無意味なテロや、人格否定の報道キャンペーン、生徒児童に凄惨ないじめがはやったり。相撲でも、横綱(神)が敗れたさいにはお祓いに座布団をなげたりするのだが、これは意外にゆらいが新しく、若貴時代に恒例化したという。


 東海地方のとある大学の先生が、ご自身のHPで著作権切れの能のレコード音源などを公開しておられる。むかしの名人、たとえば宝生九郎、観世華雪、梅若六郎、松本長らがおなじ「船弁慶」などを謡っているのをききくらべると、ちがいがわかって面白い。

 ふなっしーとねばーる君のちがい、Cロナウドとメッシのちがい、志ん生と文楽、SレイヴォーンとEクラプトン、チャーリー‐バードとコルトレーン・・・それぞれのマニアならば、区別がつかないということはない。だがいかんせん、能にはマニアがすくない。「習えばわかる」とはよくも言ったもので、つまりほんの一歩、ということなんだろう。それはなんの世界だってそうだ。深入りすればするだけ味わいがあり、「面白さ」がある。ただ私たちにかけているのは、それを趣味にするだけの「時間の余裕」と「きっかけ」なのだと思う。


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