トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第23号 


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もちださんの鎌倉リポート No.23(2008年2月28日)



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名越三昧山・1



衣張山から。
 逗子との市界にあるまんだら堂へゆくのにはいくつかのルートがあって、誠行社火葬場というところのスロープを登った先にたどりつく道があった。遠望したときにみえる名越クリーンセンターの煙突とは別のものであるが、このへんは古くから「三昧山」と呼ばれた葬送地だった。まんだら堂のわきの「無縁霊碑」はつまり、遺灰をすてたところであり、たくさんの五輪塔がほりだされている。

 まんだら堂はかつて、やぐら付近に庵をつくって住み着いた日蓮宗の行者が、青年とともにうもれた遺跡を掘り出し、あじさい園をひらいて浄財を集めつつ供養したことで一躍その名がしられるようになった。1970年代のことらしい。ちいさいころ私がはじめて訪ねたときには、あじさいはしおれていて、粗末な庵の中ですでに遺影になっておられた。そのときのリーフレットはいまもある【写真2】。

 いま、まんだら堂は発掘で岩肌がむきだしになっており、その行者がうえた美しい草花や樹木に囲まれたかつての幽邃な雰囲気はまるでない。中世考古学はおくれており、近年までやぐらなどを守ってきたのは知識ある市民や一部の宗教者にすぎなかった。霊園ブームだとかいうが、永代供養といってもたかだか20年。あちこちに棄てられている無縁墓の石材をみるたびに味気ないおもいがするが、中世の墓地なんかは、なおさら軽視されてきたにちがいない。

 名越の(厳密には逗子市小坪の)三昧山については資料がほとんどない。しかし奈良の「般若野五三昧」については比較的くわしく知られている。これはコスモス寺の名でしられている般若寺や忍性(レポ12参照)の北山十八間戸がある奈良坂のあたりで、中世には北山宿という非人宿がいとなまれていた。1209年には南京律中興の祖・解脱房貞慶(1155-1213)によって「曼荼羅堂」が修造されている。その弟子・叡尊(般若寺中興)、忍性と三代にわたって栄えたところであり、当の叡尊・忍性がやがてここ鎌倉に赴任したのだから、符牒が合うのも当然かもしれない。


冊子の内容は原水爆反対と法華経のふしぎ。



参考・般若寺(奈良県)。大塔宮をかくまったことでも知られる。
 叡尊らがまず葬祭業に手を染めたのは、病者(ぼうざ)・非人・乞食(こつじき)などの救済が目的だった。病者とは当時ハンセン病などの感染を恐れて世間との交わりが嫌われた人々のことだ。身体障害者についても、因業のせいだという迷信が社会生活をくるしめていた。非人とは、革細工(律令でいう百済伎部・狛戸)や野犬狩り(餌取・鷹飼戸)などのしごとをした自称帰化人たちであり、燕の王子丹の子孫だから「燕丹=えンた(穢多)」というのだ、などと主張していた。

 餌取(えとり)というのは鷹のえさとしてのら犬のなま肉をとる役である。屠殺にかかわることが「血のけがれ」「死穢」である、という迷信から差別され、よごれを流しやすい川原や、町の境界に当たる坂に住んだので河原者、坂者ともいった。ほんらい末端の官奴であり、役所(本所)につとめていたわけではないので、散所ともいう。本業のほかに「穢れ」つながりの日雇いしごと、清掃、土木はもとより死刑執行や葬送など死体処理にも活躍した。奈良坂般若野の非人のばあい、南都焼き討ちで死刑になった平重衡や、保元の乱で戦死した悪左府頼長ら有名人物の遺骸もかれらが仕末した。

 律僧らは、福祉だけでなく、葬送業の振興や土木仕事の創出によってかれらの自立を支援した。「一遍聖絵」に描かれている非人は、半裸姿の上に顔を覆面でおおい、みちばたに並んで物乞いをするすがたに描かれているが、やがて石を切り出し石塔を彫ったり、やぐらの建設に従事するなどして人並み以上の現金収入を得ることができ、人としての誇りを持ったのではないかと思う。ひとびともまた、律僧たちの啓発によってかれらを奇異の目で見るばかりではなくなったにちがいない。元亨三年(1323)故北条貞時13回忌供養には、「非人施行料銭100貫文」がおくられた。

 わたしたち素人にとって、「非人」というとなにやら難しい同和問題を想起させるかもしれない。それとは別に、中世史研究の分野では、かれらは重要な「文化人」として扱われる。故・網野善彦さんらの一連の論文は脚光を浴び、あのアニメ「もののけ姫」の素材にもなった。


参考・北山十八間戸。長谷桑ヶ谷療養所にさきだってもうけられたハンセン病療養施設。現在の建物は江戸時代の再興。



参考・般若寺。
 後世、士農工商といわれ工商を下に置くのは、兵農分離以前、良民として扱われたのが土地をもち税をおさめる百姓だからであり、土地を持たず、農本支配においては原則免税とされた官奴に由来する工商が国民として低い地位にみなされていたからだろう。こうした工商のなかでも、「けがれ」をなりわいとするものだけが強い差別によって底辺にとりのこされ、隔離されていくことにより、近世に至って特殊な身分に定着させられたらしい。

 鎌倉時代の法律では、裁判中に「血のけがれ」に遭ったり「鳥の糞」をかけられたというだけで、神罰のしるしとされ落ち度(うそをついている証拠)と認定された。こんな迷信があったなら、とうぜんステーキも鴨ローストも食えないし、血まみれの事故にあっても、汚ながってだれも手術をしてくれない。死者や病人を平気でみちばたに棄てに行く時代と現代とは、ある意味まったく別の社会だったのだ。過去の差別がどれほど空しいものかを、わたしたちはきちんと知っておく必要がある。

 「百練抄」嘉禎二年1236六月二十四日の条には、洛中で鹿肉をひさぐ店に集った武士たちを非難する記述がある(洛中の不浄、ただこの事に在り)。白河法皇が殺傷禁断のお触れ(1126)を出し、鷹犬を禁じ、魚網を焼き捨てさせたりする前は、かく云う貴族たちも鷹を飼い、鹿狩り(ともし)をたのしんでいた。丈夫な鹿皮やかるい牛皮がなければ鎧はもちろん、蹴鞠の毬も「したうづ(シューズ)」もつくれなかった。「律令」では官牧の屍牛屍馬の肉は売れ、とも規定している。武士たちが「血のけがれ」を気にするというのは、考えてみればおかしなことかもしれない。差別というのは、文化とともにひろがっていったのだ。いっぽうで殺傷禁断をとなえた忍性たちには、他方で非人たちを守らねばならない、とくべつな責任があったのも事実なのである。

 あらたな都市ができれば、その「けがれ」を引き受けなければならない人々も、とうぜん求められるはずだ。忍性らがじっさいに奈良や京に住む「非人」たちを引き連れてきたのかどうかはわからないが、隷属が常態化した関西よりも、あらたな文化をもたらすことができる関東のほうが、すこしは暮らしやすかっただろう。


まんだら堂のアジサイはかつて観光ガイドブックの表紙にもあしらわれていた。



ヴァレリーの「海辺の墓地」をおもわせる青い屋根、海(材木座墓苑あたり)。
 非人たちは「異形・異類」「有象無象」ともいわれた。「遊手浮食の輩」というのは、芸能をなりわいに放浪していたものも多かったからだ。いまでは人気者の寅さん(映画「男はつらいよ」)も、明治以前なら「香具師(やし)」とよばれるいやしい商売だった。滑稽なちょんまげがまともだった時代があるいっぽう、明治の開化を象徴する「ザンギリ」はもともと一部の穢多の髪型だったという。

 現代で言えば、「おたく」とか「ニート」というレッテルを貼られ、連日マスコミに罵倒・嘲笑されているひとびとに当たるのかもしれない。ただ遠くない未来、現在「良民」の代表のようにいわれているサラリーマンが逆に、「リーマン」とかよばれてあざけりの対象になってしまう可能性だってある。それは誰にもわからない。たしかにいえることは、公家も、武士も、名主もにしん御殿も、すべてかれらよりさきに、歴史の泡と消えたのだ。


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