トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第230号 


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もちださんの鎌倉リポート No.230(2016年10月18日)



No.229
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伝統芸能について・3



坂ノ下
○ (六月)七日。稲荷・羽黒・五大堂・祇園、殿中へ光御。御車寄の御辺に神輿を立てらる。御神楽あり。・・・
同十四日。同前。当日、祇園会の船ども参り、種々の舞物これあり。御築地の上に御桟敷を打たれ、公方様、同じく御簾中様、御見物あるなり。・・・

 室町時代、鎌倉公方成氏の殿中でおこなわれた恒例行事を列記した「殿中以下年中行事」1454。祭りの日、神輿の巡行が公方屋敷にやって来たことが記され、神輿の還幸のさいには「祇園会の船」、すなわち京都祇園祭の山鉾のようなものが引かれ、さまざまな芸能が披露されたことがわかる。



公方屋敷跡〜胡桃谷入り口付近
 御桟敷とは仮設観覧席のことで、平安時代の公家も、祭りの行列を見るために屋敷の塀の上に設けた。江戸時代にも、山王や神田祭の神幸が江戸城内の本丸ちかくを通り、所の厄払いはもちろん、将軍などが行列の出し物を遠望できるようにしていた。芸能の上覧は出し物のレベルを引き上げたし、各種芸能が一堂に集まることによって互いに影響をあたえ合い、いろんな舞や音楽をとりいれた能のような総合芸術を生み、見学に訪れた者、都で落伍した者などが新旧の芸能を地方へ伝播する契機にもなった。

 公方屋敷跡は浄明寺地区に碑がたつのみ。「五大堂」は明王院のことで、ここは鎮守の十二所神社をさすらしく、「羽黒」神社は明石ヶ谷にかつてあったという。とすると稲荷(稲荷小路・大江稲荷?)・祇園も十二所地区のものを指したとみるのが自然だろう。こんにち、鎌倉の祇園祭といえば、大町のお祭りなのだけれど、むかしはちがっていたのかも。


○ 神無月十日あまりの比、鎌倉に至りぬ。まづ若宮に詣でて拝み奉れば、斎垣は広く社檀は堆高うして玉の橋を渡り、石の階を登る。後ろの山には猪・鹿ところを得、前の池には鳬(*かも)・雁床を占めたり。南に向かひて二つの鳥居あり。内なるは池の汀にあり。外なるは海の渚に立てり。これを由井の浜と云ふ。
霜月の初卯に当れる日は、今夜陪従(*御神楽)などののしる。かく旅なる身にてこの礼奠に遇へる事、悦ばしう覚えて、その場に明かす。物の音月に澄み、松の響き霜に冴えたり。「庭火」の本より「榊葉」折り返し謡ふ。「朝倉」になるほど、ことさらに忘れ難き節なりき。回向申し聞こゆる砌、物古りて殊に神さびたる。廻廊だつ所に休らひて見めぐらせば、海は冬枯れの木の間に見えて、心あらん人は春秋の山の気色よりも目留どめつべし。



遠くに光るのは若宮大路
 これは実践女子大の山岸徳平文庫に所蔵されている「麓のちり」という紀行文で、永享三年1431の日付がある。鎌倉では公方持氏の寵臣、上杉憲直・憲家親子の世話になっているので、著者は名のある人物らしい。「庭火(庭燎)」「榊葉」「朝倉」は御神楽の曲の名。

 現在、鶴岡八幡宮の師走の御鎮座記念祭で公開される御神楽は数曲だけだが、中世には夜通しおこなわれていたことがわかる。神楽歌は「庭燎」「阿知女」にはじまり、「榊葉」などの採り物歌の部、「宮人」などの前張(さいばり)歌、「弓立」などの雑歌をへて星の部、「朝倉」「其の駒」などの風俗歌で夜が明ける。以前、星の部だけを聞いたことがあるが二時間くらいあったかのように思う。「聞くからにいとど昔の恋しくて・・・」などと和歌にも詠まれたように、御神楽は王朝びとの美学の結晶だった。石段の上からはいまも海が見え、ひとけのない冬の明け方なんかは空気も冴えて綺麗なのかもしれない。



五所神社
 八幡宮の廻廊には、飾りもなくひどくボロボロの神輿が展示されていたが、近年綺麗に修復された。桃山文化の余韻をのこす寛永期のもので、そう聞けば結構味のあるものではあった。これをまねて造られた坂ノ下のものも江戸中期の作(下写真)。こちらは鏡や瓔珞などの荘厳具も伝わっており、当初のすがたをうかがわせる。

 最近はすっかり見かけなくなった霊柩車も、かつては高価なキャデラックを惜しげもなく切断して、神輿のような物を造りつけていた。中世の「かるかや道心」などの絵巻には、たしかに神輿の形をした黒っぽい霊柩がえがかれ、しかもそのまま焼いてしまったようなのだ。もちろん貴族階級の話であり、おそらく使い捨ての素朴な細工だったのだろうけれど、そういえば伊勢神宮の神鏡も、外容器は舟とよばれる槽であって、どこか柩を想像させる。


 五所神社の海上渡御なんかは、神霊をのせた舟を常世の国に流し、あの世からこの世へと生まれ変わって帰ってくるという神々の旅を模倣したのかもしれない。神の死と復活の神話学は、エジプトではオシリス神の死後の旅として語られ、キリストもまたパンとぶどう酒として再生し、毎年枯れては実る新年の農耕儀礼と結びついた。

 芸能は「神迎え」とか「神送り」のためにおこなわれ、天照らす女神は神楽の音楽にふと誘われたところを引き出され、喜ぶ人々の顔を白く照らしたので「面白」という言葉がうまれたのだという。天岩戸は太陽のちからが衰える冬を「死」によって象徴したもの。宮中ではかつて毎年冬に鎮魂祭(たましずめ)がおこなわれ、岩戸の前で舞を舞ったウズメの子孫を名乗る者が、柩のような槽の上に乗って万物の魂を閉じ込める所作をした。これは霊魂が永久に旅立ってしまわないように、という呪術の名残りなのだろう。一方、日蓮聖人は八幡宮をはじめとする全国の神々が去ってしまったと主張し、法華経を守るため自分のところに来るはずだと考えた。


 そのむかし、神事と娯楽は同一のものだった。やがて宗教臭さが嫌われたり、政教分離で宗教味のつよい演目は公的支援が得られなくなるなどして、カラオケ大会とか演歌ショーなんかに変えられたところも少なくない。

 中世は芸能の時代でもあった。すべての権威は失墜し、良い意味でも悪い意味でも【自由】と【平等】の風が吹き荒れ、宗教は末端の庶民にまで浸透した。ある者はやみくもに剣を取り、ある者は海外へと飛び出していった。戦争も娯楽も無軌道なまでの経済活動も、人類の歴史においては旧体制への反逆にほかならず、あえていえば全くおなじロマンに属していたのかもしれない。

 「塵塚物語」の終りのほうで、山名宗全はこう語る。「大臣どの。われらのような武士に向かって、過去のしきたりなどと仰言らないでください。もし過去のままなら、われらのようなものが、どうしてお近付きになれましょう。時世というものをご存知ならば、あなた様方のお世話くらいは、いくらでもしてさしあげます」。


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