トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第231号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.231(2016年10月25日)



No.230
No.232



入定塚


 横浜市青葉区の上市ヶ尾というところに、地蔵堂(千日堂)があり、江戸時代の「入定」伝説をつたえる。1751年に即身成仏をはたした統誉上人の塚は、ほんとうはここから川の手におりる旧道のほそい路地にあったが、現在は境内にうつされた。

 碑に刻まれているのは、「正蓮社統誉上人専雅亮音大和尚」。正蓮社というのは、浄土宗の高僧・廬山の慧遠が白蓮社(白蓮教)という念仏結衆を始めたことにちなむ、念仏系の院号(蓮社号)。ここのお十夜(双盤念仏)は統誉上人がつたえたとされ、おそらく京都真如堂のお十夜を中興した鎌倉光明寺に学んだものと思われる。


 地蔵型の寒念仏碑1722(下写真、黒っぽいやつ)などもあるから、もともと念仏行事じたいはこの地におこなわれていて、統誉上人が十日十夜の正式な法式をもたらした、ということなのかもしれない。千日の托鉢で堂を新調したというのも、かれだったのかも。戦前、佐藤春夫が滞在したこともあったそうで、いまは自治会館もたてられ、かつての村の寄り合い場としての役割はそちらにうつった。近くに浄土宗寺院はなく、お十夜での本尊・延命地蔵の開扉などは、となりの区の大善寺というところから和尚が来るらしい。

 ここでのお十夜は十一月の末におこなわれるが、統誉上人の入定碑には「十二月初七日」と刻まれるから、法会の最中に棺に籠ったとおもわれる。例のごとく土中には竹筒が通され、上人は安座し鉦を打って念仏を唱和していたという。双盤の鉦は大きいから、昔ならきっと塚までとどいていたはず。竹筒から伝ってくる上人のか細い鉦の音は、三日三晩つづいたらしい。


 伝説では、村に悪疫がはやり、上人は万民の苦に代わり入定したのだとされる。「苦に代わる」とは、いったいどういうことなのだろう。一説に、統誉上人はみずから病んで余命いくばくもなかったともいうし、どうせ死ぬのなら見苦しい姿で他人に迷惑をかけるよりも、派手に入定をして寺を流行らせようと決意したのだ、ともいう。

 大乗仏教では、万物はすべて仏であり仏の種子を宿しているから、仏として善行をおこなえばその一瞬はだれでも仏と一体になる。それを即身成仏といったので、とくに入定とか入水、焼身といった過激な行がもとめられていたわけではない。浄土教の還相回向についても、死んで仏になってから人々を救う、という解釈のほかに、生きたまま利他行を行うことをよしとする考え方もあった。

 高野山奥の院で亡くなった空海はいまも生きているとされ、食事などが供養される。鎌倉にも普川国師や相馬師常などの入定伝説があり、法外な残業と執拗なパワハラで新入社員をいびり殺したとして話題の、あの大手広告会社の保養所の裏山を、入定山といった。


 入定とはいえ、事実上は自殺でしかない。入定行者たちは、いったい何を思っていたのだろうか。宇治拾遺物語などの説話では、自分を大きくみせようとした無名の行者がつい口をすべらせて、入定の実行においこまれるという話も多い。また中国では、長寿に飽いた年寄りがみずから喜んで墓穴に入るということを、吉祥の美談として描かれたこともあった。もちろん死人に口なしで、死に追いやった側の人間は正直に「殺しました」とは言わないだろう。嘘を自分の記憶として、うまうまと生きて行くのだ。

 東北の湯殿山などには衝撃的なミイラなどがまつられているが、太平記には天竺冠者といって、自分の母親の遺体に漆箔をほどこして本尊にしたカルト教祖もいたと伝える。秀吉の遺骸は「束帯させ奉り、大きなる壷に入れ、朱にてこれに詰め、棺槨に入れ納め奉る」と伝える(太閤素生記)が、これは生けるがごとく端座した姿で葬ったようだ。これは近世の大名の墓でよくみられるらしい。

 防腐剤の水銀朱は古墳時代の棺槨にも稀に大量にもちいられていた。鎌倉の古老のはなしを集めた「としよりのはなし」では、たちんだい付近で掘り出した大甕から大量の朱がでたとする言い伝えがあり、これが事実でもし残っていたとすれば、鎌倉武士もそんな葬られ方をしたことが実証できたかもしれない。



 ミイラ崇拝は古代エジプトなどはもちろん、中国本土でも禅の高僧・六祖の遺体などとされるものがまつられている。その他の国・地域においても、チベットの高僧や、ザビエルの聖フランシスコなど、日本でもよく知られたキリスト行者などもミイラになっている。トラジャ‐コーヒーで知られるスラウェシ島のとある部族では、岩壁に「やぐら」のようなものを彫り、ミイラのかわりに故人を象った等身大の人形を置くところもある。もちろん灰になり、土になって消えた者のほうがはるかにおおかった。そうでなければこの世は死体だらけになってしまう。

 上人の墓石のかたわらには大乗妙典廻国行者供養碑、堂の下にも六十六部施宿供養碑(写真・1711)などがある。六十六部とは、全国六十六州の所定の寺社に法華経を何年もかけて書写しながら納める行者のことで、頼朝の前世もこの功徳をおこなったなどとされる。ただ近世には飢饉などによる浮浪者たちの乞食集団のようなものと認識され、哀憐と差別とがこもごもに交じった、複雑な視線をあびるようにもなっていた。


 市ヶ尾とは市郷とも書かれ、都筑郡衙に隣接する鶴見川ぞいの町。鎌倉時代、分倍河原の工事をさぼったとして恩田氏とともに幕府に叱られた「市尾入道」という御家人がいたことがしられるが、屋敷跡は不明だ。八雲神社ふきんには、防人の伝承もあるという。地蔵堂のかたわらにはいま、バーミヤンがたっている。

 この辺は古墳も多く、稲荷前古墳群には4世紀の珍しい前方後方墳も保存されている。黒須田川という小川ちかくの丘陵のてっぺんにあり、さほど大型でもなく遺物も乏しいが、その古さと、方墳をふたつ繋いだような、特異な墳形が注目されている。古墳時代には、例の鍵穴型をした前方後「円」墳が主流で、これは神仙道における壷のかたちをした架空の島「蓬莱山」をかたどったという説が有力。壷の中には、壷中天といってべつの宇宙がひらけているのだ。前方後「方」墳のほうは、はたして何を象ったのか。

 古墳文化は北は北上盆地から南は大隅半島まで、比較的均一にひろがっており、すくなくとも各地方の豪族と倭王政権との間には、擬家族的な統一はあったものと考えられる。たとえば戦国時代だってほとんどの豪族は朝廷の臣をなのり、源平藤橘の末をなのり、あるいは家族間、あるいは親戚・君臣のあいだで争っていたにすぎない。貴重な部曲(軍団)を戦争ではなく、古墳築造に使っていた時代のほうがはるかに平和だったろう。


 入定塚の元の場所は、バーミヤンの向かいの路地より一本下手のべつの路地(写真)にあり、ここが大山道の旧道で「猿田坂」といった。

 ずっとむかし、このへんの学校にすこしだけ通っていて、ここが(推奨の)通学路だった。もちろん学校なんていってもすでに大人が立ち寄るような場所ではない。教職員はあらかた変わってしまったし、もはや現実世界にはけして蘇えることはない【記憶の墓場】のようなものなのだ。

 話に夢中になって、駅まで上履きのまま来てしまった仲間。校門をはいるとき、イタズラっぽく髪に挿してたかすみ草の花をくれた彼女。・・・過去のとりとめもない日常が、何万光年のかなたから不意に手招きしているような気がして、懐かしいとかいうよりも、目をそむけたいような気持ちになる。冥途がどこにあるのかは知らないけれど、そこはたぶん、一生分の思い出が亡霊のようにさまよっている場所なのかもしれない。


No.230
No.232