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もちださんの鎌倉リポート No.232(2016年11月2日)



No.231
No.233



無住雑談集



東御門川
 「雑談集」十巻(1305)は無住が最晩年、80歳のころ名古屋の長母寺で編んだ遺稿のひとつ。「沙石集」が好評だったため、弟子に没後のかたみとして、なお続編をもとめられたと記す。鎌倉に関する貴重な記録として、「沙石集」では頬焼き阿弥陀や扇谷東林廃寺の地蔵の話とかがみえるが、「雑談集」でも無量廃寺のがけ崩れにまつわる奇瑞など、いくつか記されている。

 全体は大部なので、ここでは無住のおいたち・人生観・政治家評などが、まとめてうかがえる巻三の後半部分を抄出した。本文は延宝七年板本に依り、漢文表現などの表記を適宜読みやすく改めた。



寿福寺
○愚老述懐
少(わか)き年、師匠片山の院主を譲る。世事正体無き故に、再三辞退す。しかれども子細有りて譲り了りて、世事丁寧に教訓し、何事も相計らうて助けられ侍りき。纔かなる什物その数を知らず、我が物・他人の物を見分けず、正体無き事、物に歴(ふ)れかくの如し。これ道心故に非ず、只世間無沙汰にして貧なる因縁、自然に遁世の媒ちたるにや。遁世の門に入りて、随分律を学び、また止観など学しき。律の事これを聞き、賢を見て斉(ひと)しからんと思へる事を思ひて、夜は坐禅せしかども、脚気の病体、志有りて功無し。

十五歳、寿福寺の悲願長老の下に、春より秋に至りて叢林の作法これを行い、律儀これを守りき。東福の開山(*円爾弁円)の座下にして、禅門の録・義釈等これを聞く。これに依りて形の如く三学斉しくこれを修する志、これありき。

然るに身・病体、心・懈怠、学有れど行無し。但し病の導師の如く、同法を教訓呵責す。然るに不法の仁は多く、如説の僧は少なし。この事、凡夫の力及ぶべからず。然るに或は親類の僧、同法不法は愚老が教訓無く、正体無き故かと思ひてこれを譏(そし)る。この事、誠に身の過(とが)免じ難し。但し聖僧の中に猶、失有り。凡夫何ぞ無からんや。・・・(中略)


○愚老は嘉禄二年(丙戌)十二月二十八日(卯時)産れたる者なり。先人が夢に、「今夜この里に生れたる者は大果報の者也」、と云ふ人有りけり。然るに先祖(*梶原景時?)、鎌倉の右大将家に召し仕へて寵臣たりと云へども、運尽きて夭亡し了んぬ。仍りてその跡継ぐ事なし。

十三歳の時、鎌倉の僧房に住して、十五歳の時下野の伯母が許へ下り、十六歳の時常州へ行きて親しき人に養われて、十八歳にして出家し、二十計の年、師匠房の譲り給いしかば、なまじいに請け取て住しながら、世間不階にて、執心なく侍りしままに、事のついでを以て、二十七歳の時、住房を律院になして、二十八歳の時、遁世の身と成りて、律学六七年。本来定恵の学侍りしかば、三十五歳、寿福寺に住して、悲願長老の下にて、釈論円覚経講を聞く(釈論二十七歳、世良田にてこれを聞く)。坐禅など行し侍りしが、一年までもなくして、脚気持病にて、坐禅心に叶はず。

その後、真言の志有りて、三十六歳、菩提山に登りて形の如く東寺の三宝院の一流肝要伝へ了んぬ。その後、東福寺の開山(*円爾)の下に詣でしに、天台の潅頂谷の合行秘密潅頂、事の次でに伝へ了んぬ。大日経義釈、永嘉集、菩提心論、肝要録など聞き了んぬ。本来、疎略・愚鈍・晩学の故、何宗も其の旨を得ず、ただ大綱これを聞く。顕密禅教の大綱、心肝に銘じ識臓に薫ず。併(しか)しながら開山の恩徳なり。宗鏡録、退きて披覧するに、開山の風情、宗鏡録の意なり。仍て処々思ひ合わせ侍り。師匠の恩徳、生を経て忘れ難し。



隠れ里
幼年に三井寺の円幸、教王坊の法橋に倶舎頌疏、処々これを聞く。二十歳の時、法身坊の上人に玄義これを聞く。二十九歳、実道坊上人に止観これを聞く。菩提山に於いて法相の法門の要処少しこれを聞く。何れの宗もその旨を得ず。只、肝要耳に経るる計りなり。当寺に因縁ある教えか。相通ふこと四十三年、無縁の寺常に煙り絶へ衣鉢道具の外、資財の蓄へ無し。世間の人の心は、非人の如く思ひ合へり。大果報の夢、以つての外にたがひて覚え侍り。但しよくよく思い解くれば、遁世の門に入りて近代の明匠に仏法の大綱これを聞くは、大果報なり。

相州の禅門(*北条貞時)、累代の家を継ぎ、果報威勢、国王大臣にも猶勝れて、万人これを仰ぐ。然るに物々の勝劣好悪は境縁にこれ無し。只人の分別の情の上に、仮にこれを論ず。古人の云はく、境縁に好醜無し。好醜は心に起こると云々。されば果報の善悪、人の情、分別なり。相対してこれを論ず。彼の相州に勝れて心を遣る事、これ多し。年長けて学問し(七十九、五尺四寸)、殊には洛陽、諸国の処々の名所、霊寺霊社、山門南都の七大寺、ことには南浮第一の仏と聞こゆる大仏、日本第一の大霊験熊野、生身仏の如く思える善光寺、大師御入定高野、上宮太子の御建立、仏法最初の四天王寺、并びに彼の御誕生の橘寺、御建立の法隆寺、御廟窟、此の如き霊所、思ふさまにこれを拝す。人間の思い出なれば、是をこそ果報の目出たきとは申しつべけれ。

殊に朝夕用心無し。無縁の寺、一物も蓄えず、盗賊の恐れなし。先年強盗、寺に入りて土蔵打ち破りて、物有ると聞きたれば、犬の屎だにもなかりけるとて、腹立てて去り了んぬ。その後疎みて入る事なし。門閉じず鉤(つりはり)懸けず安穏に起き臥しす、第一の快楽なり。・・・(中略)


○相州禅門(*貞時)の事、かけばくも勝劣を論ずる尾籠なれども、仏法の道理一義を記せり。同法知音のためなり、外聞その憚りこれ多し。かの先祖夢想の事有て、七代保たるべしと云々。然るに仏法を信じ、徳政行われ諸寺に寄進の事、これ有り。尤も久しく保たるべきか。愚推せる事、これ有り。

その故は、故義時、三度の難を逃れてその身久しく保たる。一つには、輪田左衛門尉(*義盛)世を乱したる時、故駿河前司平六兵衛尉(*三浦義村)とて北門堅めたる。起請書きながら反り忠して彼の一門亡び了んぬ。二つには、若宮の禅師殿(*公暁)、大臣殿(*実朝)を打つて、次の太刀に義時を打たんと思はれけるが、白地(あからさま)に要事有りて御太刀を文章博士に持たせけるを、義時と思つて博士を打ちてける、これ大幸なり。三つには承久の乱れ、帝王を敵とし、臣下として身を全うせらるる、希代の大運なり。

相州禅門も、三度の難逃れて身を全うせらる。城の禅門(*安達泰盛1285誅)、威勢先祖に越へて人多く随ひき、その企て遂げず。平入道(*頼綱1293誅)もまた、これに同じ。吉見殿(*義世1296誅。源範頼の子孫)、武勇抜群なりし、皆滅びぬれば、三宝の帰依有りて、諸寺の行業の力なるべし。諸寺の寄進、僧衆の帰依、末代は有り難く聞え侍り。書に云く、「妖恠は善政に勝たず」と云々。恠異多く聞ゆれども、天下安穏なり。政事穏(をだ)しき、猶々妖恠に勝ぐる。これは世間の政なり。まして仏法の徳用、などか虚無の恠異に勝たざらむ。邪は正を干(をか)さずとも云へば、世法仏法、正直の行儀、いかが邪偽の小用に勝たずやと覚へ侍り。



時頼塚(明月院最明寺跡)
故最明寺の禅門(*時頼)、幼少の時、遊びに堂作り仏作りなどせられけるを、平左衛門入道・諏訪入道など、「弓矢とらせ給御身は、弓矢の御遊びこそ候はめ。所詮なき御事なり」と制しけるを、祖父泰時、「な(に)しに制する。我夢に見たる事あり。先世、須達長者が祇園造りし時の、東北の角の番匠の引頭が生まれたると見へたり。様有る者なるべし」と申されけるに、日本は天竺より東北の角に当れり。

威勢、国王の如く、建長寺建立し、唐僧渡り唐国の如く禅院の作法盛んなる事、併(しかしな)がら彼の興行なり。建仁寺の本願(*栄西)の再誕とも云へり。在世に生じて定めて見仏聞法の益も御坐すなれば、貴き事なるべし。天下を自在に成敗せられしかば、只国王の如し。主と云うは、自在の義なり。承久の後は関東の計らいとして、院・国王をも遠き島へ移し奉り、公家には関東を御心に任せず。されば只、王の徳用なるべし。

故松下の禅尼(*時頼の母)は、有り難き人にて御坐しける。上東門の女院の御事を常に慕ひ申されて、我もかくありたきとて、仏法を信じ行ぜざる者は召し使はれず。



無量寺谷
かの女院、「人を憑むと云うは身も心も同じ様なるこそ、その形(すがた)なる。我は仏法に好きたる物なり。仏法愛し信じ行せざらん者、召し使ふべからず。」と仰せられて、御中の人、男女みな仏法者なり。西行法師修行の時、武蔵野の中に法華経をよみて草の庵に煙も立たざりけるも、上東門院の一郎の判官と云へり。北山の奥に人に知られず行ひける二人の比丘尼も、彼の御内の女房なりけると云へり。彼の御跡したひて朝より昼までは他事無く、真言法華等の行の外、世間の事なかりけり。夕方は酒宴なども有りと聞こゆ。目出たき事なり。浦山敷く思ひ侍り。彼の宿因も貴く、当来も猶たのもしき事なり。

さて子孫も皆、仏法を帰依す。上宮聖霊の御手印の縁起、天王寺にあり、先年拝しき。「我が滅後に大きなる寺をも立てて、仏法をも弘通せむ人をば、我が後身と知れ。」と記し給へり。されば知らずこの人々為(た)らんか。在家出家は云ふべからず、聖霊の後身にもをはすらんかし。をろかに思はめや。和光同塵の利益、三世絶えず三国にあまねかるべし。

この巻は殊に述懐多し。同法、没後見て片見と思いて菩提を訪ふべし。あなかしこ、と云々。(巻三・終り)


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