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もちださんの鎌倉リポート No.233(2016年11月9日)



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鎌倉浄光明寺一見の事



伝為相墓のぼり口
 今回は三浦浄心「巡礼物語」(別名「名所和歌物語」)の一節。上巻四章「金沢の地景の事」(1614記)は、「鎌倉物語」「新編鎌倉志」などをさかのぼる、金沢八景の最古級の記録として知られている。「鎌倉浄光明寺一見の事 (付)為相卿の事」は中巻の二章目(1591記)。

 ここでは網引地蔵から伝冷泉為相墓、為相が「藤ヶ谷式目」を作って広めた「連歌」、母阿仏尼についての記述がある。為相を【連歌の祖】として評価しているぶぶんは、堂上の詩歌が放浪の連歌師を媒介に武家・庶民にひろがり、やがて西鶴・芭蕉を輩出するに至る近世初頭の文芸論として注目される。浄心じしん市井の歌人だが、一条兼良の連歌論「筆のすさみ」や「十六夜日記」の引用など、一定の学識をうかがわせる。

 末尾には為相のライバル・為氏の和歌が勅撰に入ったこと、しかし不吉な歌のせいで訴訟には負けたことをしるし、悲喜こもごものていを教訓する。底本は元禄四年刊本。本文は適宜読みやすく改めた。



巡礼物語さし絵(空想図)
○鎌倉浄光明寺一見の事 (付)為相卿の事
見しは今、愚老鎌倉の名所旧跡残りなく行脚し、さて泉谷の浄光明寺へ立ち寄り、この寺の願主を尋ぬれば、住持答へて、「これは平長時朝臣、泉谷に於いて建長三年一寺を建立し給ふ。すなはち泉谷山浄光明寺と号す。本尊は阿弥陀の三尊を安置す。開山は真聖国師(*真阿)。
さてまたこの堂の後の山の半腹に岩屋あり。大石の地蔵菩薩立ち給ひぬ。これを網引地蔵と号す。その窟の内に長さ五尺横三尺、深さ五六寸ほどの窪みあり。水常に有りて絶える事なし。たう/\と湛へたり。如何なる洪水にも増さず、旱魃にも乾く事なし。但し塩の満ち干に随つてこの水、満ち干あり。末代までの珍事と云ひ習はせり。この山の上に中納言藤原朝臣為相卿(*冷泉家1263-1328)の墓所あり。この古跡を都人尋ね来たり給ひ、詩を作り和歌を詠じ給ふ事、挙げて尽くし難し。



鎌倉物語さし絵(これも空想図)
為相卿都に有りて、舎兄為氏卿(*二条家1222-1286)と和歌所の事を相論あり。されども嫡々なれば沙汰には為氏卿勝ち給ひぬ。為相卿は都を捨てて鎌倉へ下り、和歌の家をあらため冷泉家と号し、武家の宗匠などと云はれ、二条家・冷泉家と二家に分かれて歌の奥義有るとかや。為相卿、藤谷に居住し給へば藤谷殿とぞ申しける。当所にて百首の詠あり。これを藤谷百首と号し、皆人賞(もてあそ)び給ふ。立春と云ふ題初めにて、
 来る春も都の空を始めとや のどけき色に今朝霞むらん
百首なれば略し侍る。
また或る双紙に、昔の連歌の付け合いを多く記せり。「落葉は水の上にこそあれ」といふ前句に、
 夏川の入り江の洲鳥立ちかねて
と救済(*為相の弟子1284-1378。地下派の連歌師)付けられたり。
その比、家隆卿をば末世の人丸とこそ後鳥羽院は仰せ侍れ。侍従公救済をば近き世の連歌の聖とぞ申し侍り。この二人、いづれ上下の劣り勝り測り難し。人丸赤人に同じと委しく書けり。



旧地蔵堂道の洞門
それ連歌の根源は人王十二代景行天皇四十年、新治筑波の詞(ことば)より起これり。それよりこのかた皆人賞(もてあそ)び給ひぬ。差し合いなどの法度も確かならねば、満座諍論に及べりとかや。所に建治二年、鎌倉藤谷に於いて為相卿、本式目と号し述作成り、その後、新式目は為藤卿(*為氏孫1275−1324)の作なり。然るを後普光園摂政公(*二条良基1320-1388)、応安五年に改め書き加へらるる所を新式目追加と号す(*応安新式。救済と協力)。またその後、宗砌法師(*?-1455)宗匠にて沙汰せられたるを新式今案(*一条兼良に協力)といへり。
されば連歌の元来は、景行天皇四十年より天正十九まで千五百十年なり。連歌の法度定めらるる事は、建治二(*1276)より天正十九当年(*1591)まで三百十六年になりぬ」と委しく語り給ひぬ。
この由を聞き、思ひ合はする事あり。去年愚老、京都へ上り清水観世音へ参詣せしに、人云く、「今日は晦日。清水寺に於いて嘉例の本式連歌あり」といふ。これは珍事かな、と住持に会ひてこの義を尋ぬる所に、清水寺の坊主語りけるは、「洛陽清水寺にて本式連歌と号し、昔より毎月晦日に執行す。宗祇(*1421-1502)、地主権現の会所に於いて、法楽本式連歌の発句に、
 水香り花潔き深山かな
とせられしに、
 瀧もひとつに桜咲く陰
と脇を付くる。紹巴法師(*1525-1602)、本式連歌興行のあらましありつるが、延引終になかりし。今に至りて清水寺には毎月晦日、法楽本式連歌あり。面十句、裏六句なり」と物語せり。



為相塔は網引地蔵の頭の真上にある
さてまた阿仏坊と申す女人は、定家の嫁・為家の御前・為相の母なり。君達五人まします。安嘉門院四条と申して、歌の上手なり。為家死去の砌、播磨の国細川の庄を阿仏に譲り置かれしを、為氏他腹によりて押領せられし故、阿仏訴訟のために鎌倉へ下向の催しあるにより、皆々名残りを惜しみ、文に歌詠み添へて送り給ひぬ。都を出でし事は神無月十六日なりしかば、いざよふ月を思し召し忘れざりけるにやと、いと優しくあはれにて、返り事に
 廻り逢ふ末をぞ頼むゆくりなく 空に浮かれし十六夜の月
【中略 *「十六夜日記」の海道下りを抄出。】
阿仏、海道路次中、目に立つ所々を書き記し、歌を詠じ給へる日記あり。これを十六夜記と名付く双紙あり。我これを披見し、かつ書き加へ侍る。
為氏も陳状のため鎌倉へ下向有りて、この儀御沙汰あり。為氏へは付けられず、細川の庄を阿仏領知せられたり。為氏鎌倉にて病死なり。阿仏の墓所、為相の石塔いまに残りて見えたり。



藤ヶ谷飯盛山やぐら
それ和歌は神代より用ひ来たれりとかや。ほとんど為相卿、歌道を両家にあらため、連歌の本式目述作、権化の歌人と云ひ伝へり。
続拾遺に
 いたづらに立つ名ばかりや富士の嶺の
  ならぬ思ひの煙なるらん
新拾遺に
 富士の嶺や燃えつつ永遠に嘆きても
  ならぬ思ひの果てぞ悲しき 
この二首は前大納言為氏詠めり。名所限りなしといへども、なかんづく富士は名高き名所、勅撰に為氏本懐たるべし。
風雅に
 春日野に秋鳴く鹿もしるべせよ 教へし道の埋もれる身を
玉葉に
 水屑にも光や添はん若の浦の 甲斐ある今日の玉に交じりて
この二首は中納言為相詠ぜり。
風雅に
 足柄の山の嵐の跡とめて 花の雪踏む竹の下道
為相女、詠めり。


件の兄弟は、父大納言為家にも劣らぬ歌の上手、故に勅撰に入れられざるはなかりけり。然るに為氏、思ひの外の訴訟の事有りて鎌倉へ下向、駿河の国に至り、富士を見て勅撰に入れられたる二首の和歌、さぞな思ひ出で給ひけん。されば高き賤しき、万づの祝言(ことぶき)に詞を用ひて身の向後(ゆくえ)の幸いを尽くし給へり。なかんづく言の葉を連ね、思ひを述ぶれば感応有りとかや。
阿仏十六夜記に、尾張の熱田の宮へ参り、
 祈るぞよ吾が思ふ事鳴海潟 方引く潮の神の随(まに)まに
と詠みて奉る。これに付けても為氏、富士の二首の歌に、
 ならぬ思ひの果てぞ悲しき
これ訴訟の幸いに、いかが思ひ出づるや。為氏果たして沙汰に負け給ひぬ。件の歌、一度は悦び一度は嘆きに思ひ出でけるやと、推し量るのみ。すべて世間の事、能きが能きにも非ず。悪しきが悪しにも非ず。悦ぶべからず、歎くべからず。人間万事塞翁が馬、思ひ出で侍りぬ。(了)


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