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もちださんの鎌倉リポート No.234(2016年11月13日)



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影向寺・1


 川崎市野川にある影向寺についてはレポ160にも触れたけれど、鎌倉からは横須賀線武蔵小杉下車・バス10分あまり。ただし、ながい坂をのぼる。能満寺バス停からだと、坂がきつい。ここでは11月の縁日に重文の秘仏を間近に拝観できる。

 鎌倉のような観光地では融通のきかない番人をおいて、収蔵庫のなかにも立ち入らせず、ただ早く帰るよう、厳重に付きまとったりもするのだが、ここでは和尚の心意気で、スナップ撮影くらいならOK。運がよければ中にも入れてもらえるし、世話役のおじさんも相当に物識りで、いろんなお話をうかがえる。もちろん状況にもよるので、勧めてくれるまで、むりな要求はひかえたほうが無難。鎌倉みたいになっては、ほかの人にも迷惑。


 薬師堂1694の格子にかこまれた内陣奥に納めてある現本尊は、文化財としてはレプリカにあたるブロンズ製。収蔵庫(奉安殿)にある本物(旧本尊)は、8月の施餓鬼会や彼岸中日、大晦日の除夜から三が日にも公開されるが、ガラス扉越しの拝観となるようだ。

 寺伝では、光明皇后の眼病を案じた聖武天皇が行基に命じて創建740。慈覚大師円仁が天台宗に改め、旧本尊・薬師三尊像を刻んで中興した858とされる。ただ、じっさいには「无射志(むさし)国荏原の評」という、隣の郡の人が寄進した旨がしるされた瓦が出土しており、「評(こおり)」という用字から養老律令以前、白鳳時代(7C末)にはすでに存在していたことがわかった。

 元は養光寺・栄興寺などといった。聖武天皇は「万病に効く、ふしぎな泉が湧く霊石」の存在を夢のお告げで知り、発願したとされる。この石は【影向石】といい、実は創建期の塔の心礎(8C初)で、泉はその柱枘だった。塔が失われ、いつしかこれが「霊石」とよばれるようになった時期はあきらかでないが、江戸の万治年間(1660ころ)に寺が焼けたさい、旧本尊がこの石の上に移動したため、いよいよ天人が影向し仏法を守護・供養しているというので、寺の名も影向寺に改めたのだという。この種の話は、杉の本に本尊が移動した、などとつたえる杉本観音の霊験譚とも酷似する。


 たしかな創建時期はあきらかでないものの、杉本観音や神武寺などには、やはり行基・円仁の創建縁起がある。影向寺の崖下にある旧子院・能満寺には覚園寺の仏師による仏像があるなど、関東の山門系天台寺院として親しく交流があり、おなじ説話圏に属していたようだ。また八菅などの修験系の縁起はさらに古くて、ヤマトタケル・役の行者・行基、という順番になっている。影向寺ちかくの橘樹神社にもタケル伝説がある。

 考古学的には、まず豪族の私寺として大型掘立基礎建物がたった。ついで同じ台地上に「橘樹郡衙」が設置されたさい、公的な郡寺に格上げされ、現薬師堂・影向石のところに金堂・三重塔などが整備された、とみられている。その後、関東出身の円仁一門によって密教寺院に進化し、江戸時代には調布・深大寺の末寺として「稲毛薬師堂」とよばれていた。

 その深大寺の創建も定かでなく、満功上人とか恵亮(円仁の弟子800‐859)・寛印(元三大師良源・恵心僧都源信の弟子)などがつたえられるのみ。満功(万劫)は民間伝承の人で、しかも草創は天平733ころだといっている。だが深大寺には伝来不明ながら、明治の末に発見された白鳳仏の白眉・釈迦倚像(重文)がしられている。



「雲の水に映る頃、影向寺の坂をのぼる」・・・
 影向寺を草創した豪族は、武蔵国造の乱(紀伝承年534)で橘花の地を屯倉として朝廷にたてまつった、笠原直使主(おみ)の子孫が想定される。笠原は武蔵国造の一族で、天夷鳥命の子孫、ないし関東に巨大古墳をのこした四道将軍の末裔ともいい、ワカタケル鉄剣にある「加差披(余)」を笠原にあてる説もある。また正倉院文書には橘樹郡司として刑部直の名が知られるが、これも武蔵国造系図にみえるところの刑部一族であるようだ。

 この付近にはさほど大きな古墳などもなく、笠原直も刑部直もやがて歴史からきえてしまうが、将門記にみえる武蔵竹芝や陸奥話記の吉彦(吉弥侯)・上毛野氏など、僅かに生き残った関連氏族もいた。これらは郡司層としてやがて都からくる受領国司の圧迫をうけ、源平藤橘の都貴族や名門武士を婿にとるなどして家の子として改姓し、名実ともに歴史の闇へと姿をくらます。

 橘樹郡衙跡は国指定史跡として一部保全されている。その付近は正税の穎稲や調布などをおさめた巨大倉庫がならんだ正倉部分で、寺と正倉のあいだに郡司の館があったらしい。正倉はすでに奈良時代末期には衰退し、平安期には廃絶した。正倉は郷ごとに分散して置くことになったらしく、郡司の裁量はいちだんと低下し、郡衙に付属した寺院もまた経営が悪化。勅命で天台座主に任じられた円仁一門の、都鄙における絶大な名声に保護を頼むようになったのだろう。



・・・「薬師の巻毛を数へる秋」(西脇順三郎)
 さて、薬師三尊像は円仁の作とつたえるが、貞観仏ほどグラマラスではなく、定朝様式の影響とみられる独特のまなざしも伺えるところから、11-12C製作の「霊験仏」と考えられている。中尊はケヤキ、脇侍はサクラの一木造り。十二神将は南北朝のもので、平安期には別に邪鬼を踏んで左右に立つ、素朴な一木造りのニ天像が、その代わりをしていたようだ。

 日本に系統的な密教が伝わる以前、雑密とよばれる時期には、千手観音とか馬頭観音などといった、怪奇な仏像がつくられるようになった。純粋な仏像というよりは、「千本の手を持っているような」という比喩が具象化された【神像】で、古代インドのシヴァ神・ヴィシュヌ神などが、大自在天などとなづけられ、これも観音の変化身などとして、しだいに仏像へ浸潤してきたのだ。

 「仏が神として垂迹する」との信仰は、当然日本でも「権現」の名のもとに、神々を仏としてあらわす流行をうむ。寺には鎮守堂として祝われ、神社には本地堂などとして祀られた。そのような【霊験仏】には神木信仰をうけついだ木像が好んで採用され、精緻な寄木造りが進歩したのちになっても、あえて乾燥による割れや歪みが生じ易い、原始的な一木造りを選ぶ流れがうまれた。



薬師堂外陣天井画
 最澄は比叡山の本尊に、あえて霊験仏の薬師を据え、法華一乗(なんでもあり)の立場から雑密時代の信仰を継承、修験道なども重んじた。薬師は病気を癒す仏から、悪鬼を退治する神として都の鬼門除け、東北地方の平定などと、その呪力をひろげていった。

 古くは役の行者も「薬師の法」をもちいて大山を開いたなどというし、そういえば光明皇后も霊験薬師を信仰して奈良に新薬師寺をひらき、さいきん鎌倉で右手が発見され話題となった、香薬師という古仏をかつて胎内に収めていたという木像の本尊を、いまにつたえている。三条天皇が信仰した太秦の霊験薬師は唐風の衣装をつけた異形異相の像で、眼薬師信仰のルーツともなった。

 円仁は横川の杉の洞(うろ)に籠って如法経を書いたとか。自然信仰と仏教を一体化するつよい意志があったのだ。神奈川の代表的な古仏として知られる日向薬師や弘明寺観音は鉈彫りといって、内刳りもほどこさず、鑿目も粗くのこして、ほとんど彫りかけのようにつくられた。これが神木そのものの表現であり、極めて強力な【霊験仏】であるというわけは、一般の仏像とは別に、代々有力神社の御正体として納められた【神像】にこそ、こうした造りが多いからだ。


 縁日には、ふだん閉じている薬師堂も開扉される。天台様式なので内陣は格子で囲まれているが、外陣天井には琵琶・鼓をかなでる飛天・天女の【影向】がえがかれ、長押には古い絵馬もまだ多く残されている。眼薬師信仰を示す「めめ」の図のほか、女のひとが胸をはだけて金盥に乳を搾り出している絵柄もめにつく。これは境内にある乳銀杏の気根を削って、煎じて飲むと乳の出がよくなるという、むかしの信仰のなごり。銀杏は近年、なかば折れてややちいさくなってしまったが、乳銀杏はたしか、品川寺にもたくさん気根の垂れたやつがあったと思う。

 縁日にはいろんなショーも披露されており、薬師堂にも出待ちのフラのお姉さん方がたむろしていた。ハワイアンと薬師如来・・・なんだかちょっと、シュール。しかし収蔵庫の旧本尊もかつては、こんな多彩な民間信仰にかこまれて、今日まで守られてきたのだ。


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