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もちださんの鎌倉リポート No.235(2016年11月19日)



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影向寺・2


 これらの仏像が本来の薬師堂から空調完備の収蔵庫におさめられたわけは、火災や盗難の恐れもさることながら、一木造り特有の干割れを防ぐ意味もある。だから気候のいい11月以外の御開帳日はガラス扉越し、ということらしい。

 奈良の仏像には顔面からパックリ割れているものや、背刳りといって割れの原因となる木芯を抉り取った穴が、背中にあらわになったものもみられる。通常は寄木造りといって、狂いの少ないヒノキなどの均質な部分を組み合わせ、中を空洞にするのだけれど、素材そのものが御神木ではそれも出来ないし、もともと傷んでいたりして芯の位置や、樹種の適さない霊木もあったことだろう。日向薬師や弘明寺ではカツラの大木を用い、いっさい刳りをほどこしていない。長谷観音は、船材としても貴重なクスノキであったという。



二天は小柄
 一木仏の材料は多くがカヤ(栢)で、ケヤキ(槻)も多い。カヤは将棋盤などにも用いるように、木目があまりめだたないし、ヒノキのような貴重な建築材とちがって、用途の上でも他とあまり競合しない。ケヤキは大木も多いが匂いがつよく、「いくら乾燥しても狂うことで有名」(白洲正子「木」)なのだとか。また日本霊異記などの霊験譚には、トチノキやナシノキのような身近な雑木でつくったとの話もつたわっている。個性ある一木造りは、いわゆる「一点もの」なのだ。

 都の大寺院などでは精緻な「完成品」が求められたから、どれも似通っている。歪みや割れに強い寄木造りを採用し、これだと大木を調達する必要もないし、綿密な設計図をもとに部材ごとに手分けすれば、三十三間堂のような大量製作も可能になる。院派や慶派はそうした工房製作を基本にしており、ひとつの仏所で多人数が修行練磨することで技術は向上し、どれも完成度は高い。ほんものの運慶かどうかなんて、銘文でもなければだれにも判断できないほどだ。

 しかし中世後期になると仏所の離散がすすんで製作レベルはさがり、注文主も庶民が中心となって安上がりな、粗製乱造がふつうになる。もっとも、民俗資料としてみればそれもまた、無価値というわけではない。



(参考・東京国立博物館)
 仏像はもともと原始仏教では忌避され、法輪などの記号であらわされたが、1-2Cころ北インドの仏教王・カニシカ王がギリシャ(ヘレニズム)文化に心酔し、はじめて仏像彫刻を具象化、いわゆるガンダーラ仏がうまれた。このころはすでにミロのヴィーナスも存在し、アルカイック期(紀元前8-7C)などはとっくに過去のものとなっていた。

 飛鳥仏などにみられる「アルカイック-スマイル」は、ヘレニズム文化からみれば途方もなく退化した醜悪なものでしかなかった。シルクロードの遺作などを見る場合には、ギリシャへの憧れなどではなくて、むしろ地方色・民族色を評価するひつようがある。参考図はクムトラ石窟など、中国が占拠する西域トルキスタン出土の供養者像で、インド系・ペルシャ系・トルコ系住民の面差しがうかがえる。西域キジルからは大乗仏典の偉大な漢訳家・クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)を輩出したが、出土した仏典などから、ブラフミー文字やカロシュティ文字など、言語体系も中国とはまったくことなっていたことがわかる。



(参考・東京国立博物館)
 モンゴル系王朝の唐になると、鳥毛立女屏風にみるような、ちょっとむくんだような顔が好まれる。中国大陸にはそもそも、仏像の伝来よりもはるかふるくから副葬用の人物俑なんかが作られてきた。チベット系王朝である秦始皇帝墓のものなどは、あきらかに民族的特長を強調し、みなダライ‐ラマ14世のような強靭な人相を示している。漢代の比較的出来のよいものは、日本人がこのむ阿修羅像のようなおさな顔だ。六朝時代には、鳥居清長ふうの細腰美人がうけたらしい。

 「洛陽伽藍記」は、北魏の分裂によって廃絶・離散した古都の寺々を追憶した名作。ちょうど同じ頃、百済や日本に仏教が伝わっているので、初期の仏像はみな北魏式になったのだろう。以降、晩唐の石仏や宋代のものなど、さまざまな流行が日本の造仏にも影響してきた。宋風は楊貴妃観音・滝見観音・水月観音などのような、面長で顔が大きく、仙人ふうの遊戯坐などが特徴で、消極的ながらニュアンスは鎌倉大仏や安阿弥様などにもうけつがれている。極楽寺にあるような、生身の釈迦などの像も試みられた。

 しかしほんものの釈迦・ないしシャカ族の民族的面影に到達することは、ついになかった。なかば閉じたまぶたが印象的な、定朝様(よう)の夢見るようなまなざしは、むしろ「和様」の極致をしめしている。


 「芸術新潮」1970年10月号はこどものころのお気に入りの号で、そこにロラン・バルトの「表徴の帝国」に載せられた図版が紹介されており、なかでも京都を代表する鉈彫りの霊験仏のひとつ、「宝誌和尚像(西住寺)」が目にとまった。僧の顔がパカッと裂けて、なかからもうひとつの顔・十一面観音がのぞいている、珍しい像。もとは伊豆にあったものを下京高辻に移した、という。

 鉈彫りは文化の低いアイヌの民芸品、とばかにされていた時代に、その象徴的な意味を考察したフランスの哲学者もすごいが、京都国立博物館でみたとき、肩幅なんかも細くて、あきらかに一本の立ち木(神木)からつくられたもの、との印象をうけたのを覚えている。宝誌は六朝時代のなぞの行者だが、日本の両部神道(神仏習合)の理論書の著作者にも仮託されているそうで、【僧形神像】としてあらわされる資格は充分にあったのだ。

 境内には欧文学者・西脇順三郎さんの詩碑があり、世話人のおじさんはなぜだか、「第一回南極観測隊の隊長」だとして力説していた。別の人との勘違いだったのかもしれないが、ノーベル候補にもなった前衛詩人と南極、それもまた新手の詩の一節のようで、なんだか快くおもえた。影向寺がでてくる長編連作詩「旅人かへらず」は、めずらしく述懐的な作品で、「十年の間学問をすてた。都の附近のむさしの野や、さがみの国を、欅の樹をみながら歩いた」「学問もやれず、絵もかけず、鎌倉の奥、釈迦堂の坂道を歩く、淋しい夏を過ごした」などとあることから、戦時中の心象を詠んだものらしい。


 かつて十王堂のあった位置には夢殿ふうの聖徳太子堂がたち、孝養太子像を収める。右後方には、檀家の法事などに用いるため新築した阿弥陀堂があり、十王はそちらにいらつしゃるようだ。いずれの堂もふだんはしまっていて、百日紅の時なんかも、あまりおとずれるひとはいない。それもかえって、風情がある。

 かつては「行基菩薩作の薬師像」も、頭部だけのこされていたという。いまも本尊のうしろに焼けた仏像の残欠がころがっているらしいが、頭部というようなものではないようだ。

 「新編武蔵風土記稿」によれば、円仁に関する伝説として、惟喬親王と即位をあらそった清和天皇のため、祈祷する円仁の夢告にここの薬師があらわれた。即位を感謝して七堂伽藍を再興し、自作の薬師を搬入しようと駿河まで下ると、仏像はたちまち消えて影向石の上に移動した・・・と記す。ただし「縁起に載るところ・・・もっとも妄誕にわたる事多くして、うけがふべからず」「もとより妄誕にして、とるに足らず」などと、辛口だ。「されども、古の盛んなりし事は論なかるべし。今も近辺の土中より古瓦を得ること多し。これまた伽藍の旧跡たるの一証とすべし」。



りんごと餅
 収蔵庫のかたすみのガラス棚に、古瓦の一部がおさめてある。世話人のおじさんの話では、本堂まえの水屋あたりからでたといい、前述「荏原評」銘のものは、等々力の市民ミュージアムにあずけてあるのだとか。ここのは武蔵国分寺のににた単弁蓮華文や、裏面の叩き目模様からして、天平の復興期以降のもののようだ。

 瓦は平安期以降、あまり使われなくなる。「枕草子」には瓦葺の職の曹司は暑い、と嫌っているし、宮中でも桧皮建物が高級視されたことがわかっている。平安宮の焼亡に関連する瓦が多く地方から搬入されているのは、ほぼ受領の成功(*じょうごう。献上)によるものだとしても、良質な産地がかぎられていたり、唐人瓦師といった古代の官奴に由来する専門職人が不足・偏在していたことも理由なのだろう。胎土がスカスカの安物を用いると、鉛色をした表面の燻し処理がすぐに傷んでヒビ・雨漏りの原因になると、いぜん業平寺(奈良)の和尚からきいた。


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