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もちださんの鎌倉リポート No.237(2016年12月2日)



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新靺鞨



師岡熊野神社にて
 舞楽の「新靺鞨(しんまか)」という曲は、満州シベリア地方にあった靺鞨(まっかつ・勿吉)という国の服属儀礼をあらわしたものという。出(ず)る手の高麗乱声では、叩頭拝といってふかく拝揖(お辞儀)したあと、地べたに笏をおいて左右に寝そべるようなしぐさを繰り返す。当曲(中心の曲)でも、平舞のなかにジャンプを交えるなど、いくつか特異な振りをみせる。

 靺鞨国は平安前期までは渤海王朝(震・高麗)を興し、それ以降は契丹(遼)や金に属したとみられる。高句麗・渤海(震)・金・清をたてたツングース系諸部族の総称でもあり、挹婁・女真(女直・粛慎)などという部族も、その一類とされる。ツングースの故地は現在、中国やロシアなどが領土としている。韓国も「三韓の一部」だなどと主張しているが、高句麗を「三韓」にかぞえるのは中世以降の偽史にすぎず、三韓とは半島南部のことだし、有名な好太王碑にも、韓・穢(*正しくはさんずい)は異部族として、はっきり区別されている。


 渤海国をめぐっては、「六国史」には唐による冊封名の「渤海郡王」、もしくは日本むけの通称として「高麗国」などと表記するが、多賀城碑762には「去靺鞨国界三千里」などとみえる。また渤海国の滅亡後、引き続き蝦夷・シベリア交易をおこなっていたとみられる奥州藤原清衡の「中尊寺供養願文」1126には、「粛慎・把婁之海蛮」としるす。

 渤海は日本へもたびたび正式な朝貢使節をおくってきた。「新靺鞨」は宮中の大極殿および豊楽殿でおこなわれた実際の朝拝儀礼をうつしたものともいわれる。楽家の説では、原曲はまさしく高麗国人・靺鞨芋田の作であったが、渤海滅亡後、数世紀をへた白河法皇の白川法勝寺供養のさい、藤原俊綱に命じて復曲したから「新」がつくという。白河院の寵臣で音楽にも造形があった俊綱といえば、石田殿・伏見殿をつくり作庭の名人として名をはせた橘(藤原)俊綱(1028-1094)のことであろう。

 番(つがい)の舞は採桑老で、他に渤海関係とつたえる近縁の曲としては、もと女楽で女面をもちいる綾切(別名・大靺鞨)、渤海の貢ぎ船を迎えるさまを表したという敷手、新鳥蘇・古鳥蘇は烏蘇里(ウスリー)地方に由来するとかいう。また走徳(走禿)は満州人の弁髪をあらわしたとも。


 装束は特製の縫脇の袍(文官装束)で、一臈二臈は赤、三臈四臈は濃緑に色分けされ、すなわち二人づつ並んで登台する。冠は唐冠といって、中世に唐の皇帝がかぶると信じられた、トンボの羽のような纓のついたものを使用する。写真の団体では省略して糸鞋(足袋)を着けているが、正式には地下(じげ)であることを示すブーツ状の革靴(かのくつ)をはく。

 唐冠は足利義満や豊臣秀吉も愛用していたし、能でも同種の透冠を高次の神に使用し、唐冠はそれに次ぐ鬼神類や唐の皇帝に使用する。ただし唐代の皇帝の肖像では、纓はかなりだらんとして描かれ、トンボの羽のようになったのはたぶん中世。だから実際の靺鞨国の風俗をあらわしたものであるかどうかは、疑問だ。前述の近縁曲・古鳥蘇では、通常の巻纓の冠をもちいている。

 赤、濃緑の袍というのも、朝廷が服属した外国人などにあたえる「外位」の実質的な最高位に相当する、五位・六位の当色をあらわしたものなのだろう。だとすると、これは日本側が下賜した参内用の官服のイメージ、ということになり、舞も受位にたいするよろこびの拝舞を象ったものかもしれない。朝貢制度では、貢物のはるか上をゆく下賜・歓迎がおこなわれたのだ。



唐冠
 高麗(こま)楽、ということばの語感から、中世朝鮮の王氏高麗(こうらい)を連想する人もいる。しかし国交のなかった王氏高麗とは、時代的にも全くかかわりがない。実態としても朝鮮関係の曲はなく、むしろインド・ベトナム(抜頭)、トルキスタン(崑崙八仙)、匈奴(貴徳)などといった、満州以外の国をイメージした曲が大半を占めている。

 飛鳥時代におこなわれた百済楽や新羅楽にもとづくらしい曲は、ほとんどが滅び去ったらしく、伝存しない。「信西古楽図」によれば、雅楽というより曲芸のようなものだったともいう。李氏朝鮮の宮廷楽や、韓国の田舎につたわる「にわか狂言」のような仮面劇は、愛好家によるしつこい「こじつけ」にもかかわらず、日本の雅楽とは別系統のもの。

 【歴史認識】とはどんな時代にも常に、おぞましいほど政治に汚染されてきた。何が気に入らないのか、仮面劇の面を日本の雅楽面に似せようとしたり、ゆがんだ誤解から李朝宮廷楽に日本の「春鶯囀」をアレンジし演奏させようという試みさえある。これはかえって、他国の民俗芸能の真実性を根底から損なう、あやまった傾向といわざるをえない。文化人らは自らの行為にひそむ悪意を、はっきり自覚するひつようがある。



しゃがんで、ジャンプ!
 神楽・東遊・催馬楽といった国風の雅楽と、朗詠・舞楽・管絃といった世界各地の音楽とに、ほぼ同一の楽器をもちいるということは、各楽器の調律や音域(ポジション)といった面だけでも、かなり混交・画一化していることを示す。

 中世までの調律は、ピュタゴラス音階といって2/3の分数のみを基準としたため、下上5度(ファドソ)以外は割り切れず、ずれの大きい一部の音は「悪魔の音」とか「亡国の韻」などとしてタブー視された。古代の音楽では洋の東西にかかわらず、濁りが目立たないよう半音階を避けた五音音階(ペンタトニク)が基本となった。主要な旋法にほぼ共通の偏りがみられるのは、つまり調律法が同じだったからで、調律上ずれが大きい「ドレミファ」音階は、近世までほとんどこころみられることがなかった。

 「ドミソ」のミが不安定だと物理的に和声は確定しない。したがって中世までは、こんにちのような長短の和声にもとづく単純明快なメロディは困難だったとおもわれる。こんにち演歌やわらべ歌などで親しまれる「ヨナ抜き音階」も、3度(ミ)の音が明確に加わっており、伝承音楽としてはまがいものでしかない。「古代中国にもドレミファがあった」と強弁する者もいるが、軽音楽みたいな安易な「復元」は、近代の洋楽を加味したチンドン屋ふうの明清楽にすぎず、素人受けをねらった独善的な空想にすぎないようだ。


 実際、耳慣れない民族音楽や前衛音楽の人気はうすい。AKBの横山さんが「(再生回数)六回・・・♡」とつぶやくCMがあったけれど、Youtubeのような世界的なサイトでもそうなのだから、極東の島国でも事情はおなじだ。

 前衛音楽はもともと、民族旋法であったり中世教会音楽を応用したものから発展したようだ。たとえばリストなんかはハンガリー出身だし、中世音楽を保存するカトリック教会に心酔していたため、必然的に不協和音を連打せざるをえない、奔放で多調的な旋法をこのんだ。異国の民謡や教会音楽をしらない現代人にとっては、そこが難解で平板、もしくは技巧偏重的に、聞えてしまう。

 ジャズやロックでも、故意に音をゆがめたり即興的に拡張和声(不協和音)を連発するが、これもルーツである黒人旋法(ブルー‐ノート)と近代調律との音価のズレにつじつまをあわせ、音感覚の差異に折り合いをつける工夫に由来している。主音を複数もつ複雑な拡張和声は構造的には多調であるから、協和音よりはるかに自由な旋律と親和性をもつのだ。うまくいけば、ふしぎとメロディも明るく軽快にひきたってくる。これを日本人が単純な短調だけで演奏すると、いくらワイルドに気取っても、四畳半ロックみたいな、陰湿でつまらないものになってしまう。


 そもそも中世には【近代音楽の伝統】そのものがなかった。調性は近代に発明されたものだから、「ロックは伝統の破壊」とはいっても、じっさいには中世以前の奔放な音感覚の再生、ないし開放という面もおおきいのかもしれない。調性の限界を超克することをうたった前衛音楽(現代音楽)といわれるものの多くも、事実上、この流れに沿うものだ。

 中世の音楽は、書法(エクリチュール)としては素朴で不完全なのかもしれない。しかし近代音楽にはない、さまざまな可能性を秘めている。たとえば能管のような不確実な音程を、フルートでなぞることはほぼ不可能。それにカラヤンとかべームが超一流のオーケストラで「君が代」を演奏しても、日本人の鼻歌よりうまくいくとはかぎらない。すなわち伝承音楽とは、高級であるかとか、上手下手とかの問題とはまったくべつの次元で、その土地に根付いた唯一無二の音感覚を示すものなのだ。

 それは言葉のイントネーションなんかとおなじで、ほんらいだれにでもわかる、身近で自然な感覚だった。ただ、そんなものさえグローバリズムのなかでは、次第に消えうせてゆこうとしている。


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