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もちださんの鎌倉リポート No.238(2016年12月4日)



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林邑八楽



抜頭(*観護寺にて)
 現代の学者の想像力とはちがい、中世には中国・朝鮮だけではない、もっと広範な世界観をもっていたようだ。蘭陵王や抜頭・胡飲酒・迦陵頻・倍臚・安摩・万秋楽・菩薩など、舞楽の人気曲をつたえたのは仏哲というひとりのヴェトナム人とされ、これらの曲を林邑八楽、という。

 仏哲は、天平時代に来朝736。奈良の大仏を開眼したインド僧・波羅門僧正が唐からつれてきた者らしい。鑑真は仏師として胡人安如宝や崑崙人軍法力、林邑人善聴など、さまざまな技術者を連れてきた。かれらはもともと唐の寺院に付属し唐名をなのった、坊主頭の寺奴であったとおもわれる。仏哲はかなり実力のある楽師だったらしく、天平勝宝年間には、日本でもたしかに「林邑楽」が上演された記録がある、という。



裲襠装束(乗馬用ベスト)
 林邑とは、現在のヴェトナム中部にあったとされる国、チャム‐パー(占城・占婆)の唐名。ヴェトナム北部はたびたび漢や唐の侵略をうけた越南・安南地区で、阿倍仲麻呂が長官として赴任したことでもしられる。これにたいして林邑国はクメール文化の影響下に、インド色の強い国であったようだ。

 中世にはヴェトナム周辺の焼物を「交趾(こうち)」と呼んで珍重し、日本人町もひらかれた。この交趾もまた唐の郡名で、「林邑」も「朝鮮」などと同様、漢代の郡名にちなんでいる。歴代中国では侵略したことのある、ごく一時的な地名をじぶんの領土のように誇大にいっていた。

 現代でも多くの教科書の歴史地図がこの誤解を踏襲し、「架空の最大版図」に従って描かれているが、実際には冊封とか羈縻支配(きびしはい)とよばれる、単なる同盟を含んでいたりする。たとえば元寇を説明するさい、ヴェトナムやインドネシアでは惨敗しているのにあえて中国の色に塗ったり、逆に完全征服されたはずの王氏高麗だけは特別扱いし、かえって独立国のように色分けしたり。教科書会社は「近隣国条項」に配慮し、近隣国のナショナリズム的要求には無条件に追従する傾向があるので、注意がひつようだ。



手には桴(バチ)をもつ
 林邑楽の特色として、いくつかの曲では夜多羅拍子という5拍子で演奏されることがある。これは「2・4」の6拍子、すなわち南無妙法蓮華経でおなじみの「只拍子」から終りの1拍を抜いたもので、右方の舞楽のばあいに現れる(左方では只拍子)。

 伝説では、あまりに難しいので無闇「やたら」に演奏できない、その「やたら」の語源とも言われるが、これは中東などでよくみられる減拍子のいみだという。もともとは舞踏の途中で突然一拍づつ増やしたり減らしたりすることで疾走感をあらわすものだ。抜頭などは「走り舞」といって、勇壮な武の舞のうちでもとりわけダイナミックな振り付けがあり、同じメロディがだんだん加速していくさまは異教的で、ベジャール・バレエのボレロなんかを見るよう。

 邦楽にはさほど複雑な変拍子があるわけではないが、能などでは振り付けにあわせ、節ごとに煩雑なアゴーギク(速度法)をつける極端な即興性も重んじられる。これは洋楽などにはあまりない手法で、ブリテンなど海外の前衛音楽家を魅了した。



蘭陵王(龍面。*師岡熊野神社)
 林邑楽の多くの曲は壱越調で奏でられるが、かつては西域のトルコ系民族沙陀族が唐に伝えたインド音階の、沙陀調であったともいわれる。雅楽では、移調はカラオケのように単純にキー(音高)を変えるだけでなく、旋法そのものを変えてしまい、旋律や曲調の変化をもたらす。たとえば三種類ある「越殿楽」では、標準の平調が祝いの曲、盤渉調や黄鐘調は葬式の曲などになる。

 ピアノでは黒鍵だけで容易に弾ける曲もあるように、音高は楽器の弾き易さと密接な関係をもつ。ポジションがそぐわない楽器で演奏するのはむずかしく、音域の限られた中世の不自由な楽器では、移調による変容に加えさまざまにアレンジされてしまう。そうなるともはや、元の楽器・元の調にもどして旋律を復元するのは困難で、林邑楽の原型はほとんど憶測の域をでない。

 また「抜頭」などは太食調というアラビア風の旋法をもちいており、唐の文献にも「西域由来」とされている。「蘭陵王」のように、主人公が分裂北魏(北斉)の武将で、原曲の歌舞も明らかに唐土でつくられたはずのものが、なんらかの事情により辞(歌詞)をうしない、すでに唐土においても西域風に変化していたのではないか、とみられる曲もある。


 北魏や唐の皇帝も先祖は西域・内モンゴル出身の異民族だから、多民族主義の、エキゾチックな文化を好んだ。西安や福州など、海・陸のシルクロードには現在もイスラム教徒などの異民族が多い。おそらく仏哲も長く唐土に住んでいて、そこで他の国の楽師らとともに、世界各国の音楽をまなんできたのだろう。なんにせよ、林邑国出身の仏哲が西域経由の音階を、あえて自国の音楽として伝えるのはつじつまがあわない。

 中国の学者の説によれば、仏哲が来た唐の開元年間には、玄宗皇帝が「蘭陵王・抜頭・胡飲酒」などの曲を珍重し、宮廷外での演奏を禁じたのだという。これらの曲が仏哲の伝えた林邑八楽と一致しているのは偶然ではなくて、なまじ唐にいてはこれらの秘曲を上演できない以上、日本にでも伝えて一旗あげよう、ということになったのかもしれない。ただ玄宗皇帝に遠慮して、日本ではあえて「林邑の曲」、といったのだろうか。



蛮絵の袍(*観護寺・鶴見神社)
 平安時代の巨編「宇津保物語」の発端には、主人公の祖父・俊蔭の乗った遣唐船が漂流して波斯国につき、数年仙界をさまよったあげくアシュラの守る桐の霊木を授かり、この木でつくった魔法の琴をもちかえる。さまざまな曲折をへて、蔵からでてきたこの琴の調べにのって、物語は大団円をむかえる。この波斯国とはペルシャの事で、俊蔭の船はマレー半島もインド亜大陸も素通りして、音楽のふるさと、オリエント世界に直接着いてしまったことになる。

 アレキサンドロス大王の遠征以降、オリエント地方にはギリシャ(ヘレニズム)文明がひろがっていた。1-2世紀、北インド・クシャーン朝の仏教王、カニシカ王が築いたガンダーラ美術も、そのひとつ。貨幣にはギリシャ文字がつかわれ、日本や中国につたえられた北伝仏教の大乗哲学も、ここからとどけられた。物語の作者は、こうした経緯にもとづいて、おぼろげながらもオリエント世界を知ったのだろう。

 日本から東南アジアにいった最初の人は、薬子の変で廃太子となった真如法親王。弘法大師の弟子・宗叡と唐で別れ、広州から海路天竺へむかったのちは、消息をたった。また鎌倉時代には、松浦党の者が台湾とおもわれる島に漂着したという記録がある(漂到琉球国記1243)。


 林邑八楽ではないが、舞楽には獅子などを象った「蛮絵」という刺繍を多用する。盤絵、すなわち丸い紋にすぎないという説もあるが、獅子などがデザインされる点から南蛮の風習だともいう。この紋も奈良時代にゆらいし、たとえば天平の甍としてしられる唐招提寺の正面扉にも蛮絵の花紋がならんでいた痕跡がのこっている。

 舞楽の蛮絵が羅(うすもの)の上にほどこされる色とりどりの刺繍になったのは近世のことで、東寺や高野山につたわる鎌倉・室町期の遺品では、濃い目の縹(はなだ)に染めた麻や絁(あしぎぬ)の地に素朴な墨色の摺り紋だった。これは舞楽固有の別装束だったわけではなく、褐衣(かちえ)とか褐襖とかいって、随身などが着た通例の武官装束だったものだ。鶴岡八幡宮の随身像では、唐草の地に花や獅子を刺繍した丸紋をあしらった贅沢な「蛮絵の袍」を着している。

 はでな衣装は古来禁制の対象だったため、むしろ朝廷がおとろえた近世になってから、武家の自己顕示欲として発展したのだろう。


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